誌「月映」を通じて,私が恭吉氏の塞術を始めて知ったのは,今から二年ほど以前のことである。」とある。『月映』は,田中恭吉,藤森静雄,恩地孝四郎の三人による,1914年9月から翌年11月にかけて7号まで刊行された版画と詩の雑誌である。三人はともに22,3才の若者で,東京美術学校の学生だった。田中と藤森は美校入学前に学んでいた白馬会の研究所時代からの友人で,田中と恩地は竹久夢二を介して親交を深めた(注5)。そんな三人のうち,一番に版画をつくりはじめたのは田中である。田中は1911年,東京美術学校日本画科に入学していたが,古画を写す伝統的な授業内容に飽きたらず,第l回ヒュウザン会展に出品したり,竹久夢二と交流して夢二主幹の雑誌『棲咲く園紅桃の巻』に詩で参加したり,また研究所時代からの仲間たちとともに自作の詩や「感想Jと呼ぶところのエッセイ,紙にインクで描いた絵などを綴じ込んで同人回覧雑誌『ホクト』や『密室』をつくったりし,自由な制作発表の場を求めながら自分の進むべき道を模索していた。木版画は,1913年末,そうした中で始められた彼にとって新しい表現手法であった。当時盛んに紹介されていたムンクや後期印象派,表現主義の作家たちに見られる版画のスタイルに田中が惹きつけられていたであろうことは,その作品を見れば肯首できる。1914年1月発行の『密室』第7号の表紙に見られる木版や,同年2月発行の『密室』第8号に貼り込まれた〈病める夕べ〉〈太陽と花〉が田中の木版画のなかで最も早い作例であるが,〈太陽と花〉のモチーフになった作品としてムンクの〈壷}(1896年)を挙げることができる。田中は版画の魅力にたちまちのめり込み,その熱中ぶりはやはり芸術上の煩悶期にあった恩地と藤森にも伝わった。田中が版画をはじめてから2か月余りのちには,彼らのあいだで『月映』出版の計画がまとまっていた。ある日,藤森が学校から帰ると,田中と恩地が待っていて,一緒に版画の雑誌をやろうと誘われたという(注6)。まずは自分たちの力を養うために1年の準備期間をおき,それから出版しようという予定が立てられた。そして準備期間中には手摺による三人だけの私家版『月映』が6集までまとめられたが,第2集がつくられた1914年4月には,田中は結核療養のためすでに和歌山に帰郷していた。手紙のやりとりによって編集はすすめられ,やがて田中の病状が思わしくないために,予定より繰り上げられて同年9月に公刊が開始された。田中が木版を手がけるようになった直接的なきっかけには,木版彫師,伊上凡骨の-479
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