鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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カfヴェルハーレンの詩集『あかるい時』から(注16),また田中の作品〈赤き死の仮面〉っていた。さらに1920年代になると,恩地と山田,露風との関係は楽譜の装憤者,作曲家,作調家という仕事仲間へと発展する。恩地は「装頼雑談」(『詩と音楽』2巻7号)(注14)の中で,自分が装順の仕事を続けてきた中で忘れがたい事柄として次の二つを挙げている。一つは三木露風の『象徴詩集』の装頼を担当した際に,露風が収録される詩のイモ表的な十数篇を丹念に書き抜いて送ってきたこと,もう一つは山田耕搾の作曲集装棋の時に,山田がすべての収録曲を聞かせてくれたこと。この二つの体験によって職業的になろうとした装頼の仕事を正しい位置にヲ|き戻すことができたと述べている。確かに恩地は,1920年代になって露風の『生と恋J,『象徴詩集』などの著書の装慣や挿画を担当すると同時に山田の楽譜の装頼の多くを担当し,1922年9月には山田耕搾曲,三木露風詩による楽譜『風によせてうたへる春のうた』の装憤によって両者との共同作業も実現しているのである。以上のような状況を勘案すると,『月映』の同人たちが,まさに自分たちの雑誌を世に出そうとしていた1914年初頭に活動を開始した未来社に興味を抱き,強い影響を受けていたとしても不思議ではない。それでは,彼らが未来社とその同人から受けた影響とはどのようなものだ、ったのか。以下,三木露風の象徴詩と『月映』の版画作品との関係,山田耕搾と恩地の「t予|育」シリーズとの関係という2点に焦点を絞って検討を行う。会の結成など新しい芸術運動の勃興した時期であった。当時,美術学校の学生であった恩地たちにとってもこの頃は,「夢中になって智識を求め,人生を語り,芸術を論じて活気ある日々」(注15)を送っていた時期であった。彼らは新しく出版される国内外の雑誌・書籍に注目し敏感に反応したし,そこから作品を制作する際の着想や表現方t去を借用してくることもあった。『月映』という象徴的な誌名からも推察されるように彼らはとりわけ象徴主義文学に強い興味を抱いていた。それは恩地の版画作品〈持情『あかるい時j)(1915年作)2 露風の象徴詩と『月映』の版画1910年代の初頭,明治末から大正初期にかけての時期は,文学界では『三田文学』や『スバル』『白樺Jの創刊,口語自由詩の登場など,美術界ではフユウザン会や二科-39

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