鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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〜1914. 7)はたびたび版画を写真図版や木版で紹介し,特に1914年2月には「版董競」もとで修行していた親友,香山小鳥の作品をそばで見ていた影響があるだろう(注7)。また前にも触れたように,さかんに紹介されていたムンクなどの西欧美術の影響もある。しかし今回の調査によって,彼らをとりまく状況にはそうした影響のほかに,当時さまざまな作家が文芸雑誌や美術雑誌に絵を寄せ,それが媒体の性格上欠くことの出来ない木版や石版などの印刷になって,「版の絵jとして次々に掲載されていた事実がわかってきた。当時の版画をめぐる状況については,これまでに小野忠重が『近代日本の版画』の中で「このあたりを知る大切な資料は「現代の洋画J誌と「フユウザンj誌である。J(注8)と,2つの雑誌名を重要な文献として挙げ,また当時の出版物を概観して次のように言及している。「出版物装画一東一一田中と恩地の萩原詩集装頼[『月に吠える』]や註2[津田青楓の装頼図案]の外にも長谷川潔の例(一九一四刊プランデスの露西亜文学印象記)があり,文芸誌も「仮面Jだけでなく,「奇蹟」「モザイク」「とりで」「蕃紅花」等に小林徳三郎,藤井達吉,水島爾保布,清宮彬,岡本帰一等の版画がみられる。大正初期版画の特色だが,長谷川,永瀬,清宮らのほかは以後版画作は知られない。「青鞘」一九一四年に半年ほどアダムとイヴのコマスキ彫木版表紙がつづく。J(注9)それらを詳しく見てみると,前の二誌はその本文内容もさることながら,そこに掲載された表紙絵や図版のあり方も興味深い。『フユウザン』(1912.11〜1913.6)の表紙は斉藤与里,清宮彬,バーナード・リーチらが手がけている。『現代の洋画』(1912.4 を出して太田三郎,岡本帰一,池田永治,カンデインスキーの木版を掲載し,写真版で山本鼎,南薫造,津田青楓,富本憲吉らの木版作品を紹介した。さらに版画に対する諸家の議論を特集掲載しており,その頃版画に対する注目が急速に高まっていたことを示している。それはちょうど田中たちが『月映』の計画を立てていた頃で,田中から思地にあてた葉書には「現洋[現代の洋画]のあれに二三さうざうしい連中が版画をよくけなしてゐたので,余計にむかむかしてきっといいものをみせるぞとひとり力づけてゐる」(注10)という文がのこっている。『仮面』(19日.8〜1915.6)は『聖杯』(1912.12〜1913.7)が第8号から改題された文芸同人雑誌で,長谷川潔,永瀬義郎の木版画が表紙,裏表紙,口絵に掲げられた。『奇蹟』(1912.9〜19日.5)は,舟木重雄ら早稲田大学の学生たちが中心となった文-480-

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