鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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3.萩原による田中の発見芸雑誌であるが,フユウザン会の出品作家たちも多く関与しており,小林徳三郎,真田久吉,川上邦世らが,文章と絵を発表している。文芸誌『モザイクj(1910. 5〜1914. 1 ) には同人の水島爾保布が表紙絵を描いている。『とりで』(1912.9〜1913. 10)は演劇美術雑誌で,岸田劉生,富本憲吉,清宮彬,岡本帰ーが表紙を手がける。『蕃紅花』(1914. 3〜1914. 8)は,尾竹一枝,神近市子らが編集した文芸雑誌で,富本憲吉が表紙木版を彫る。女流文芸雑誌として知られる『青鞘』(1911.9〜1916. 2)も1914年頃にはやはり奥村博による興味深い表紙絵が続いていた。小野が言及した上記の雑誌以外にも,『スバル』(1909.1〜1913.12)における1912年頃の漬田保光の裏表紙絵,『創作j(第l期1910.3〜1911.10)に見られる倉田白羊のペン画を使った表紙絵,『朱築』(1911.11〜1913. 5)での北原白秋によるベン画,『地上巡礼』(1914.9〜19日.3)におけるやはり白秋の表紙桧,『卓上j(1914. 4〜19日.5) の富本憲吉や『妻美』(1914.5〜1914. 10)の岸田劉生,水島爾保布,バーナード・リーチ,富本憲吉,藤井達吉の木版,京都の『黙鐘』(1915年)における河合卯之助,また『鳳梨(アナナス)』(1915年),『光t:(コロナ)』(1915年)の河合卯之助,森谷利喜雄,藤井達吉らの版画がある。さらに後になると萩原朔太郎も関与した群馬の文芸誌『狐の巣』(1916.5〜1917. 2),山村暮鳥の『LEP悶SMj(1916. 4〜1916. 8)などにも興味深い版画が見られる(注11)。このように,『月映』が創刊された1914年前後の文芸・美術雑誌を調べてみると,当時数多くの版画が,雨後の竹の子のようにそこかしこで生み出されていた状況がわかってくるのである。田中が木版を手がけはじめ,藤森や恩地とともに『月映』の刊行へと興味を向けていったことは,当時の美術界や文芸界の雰囲気を感じとり,その動勢に衝き動かされたからに他ならない。ただ,上記に挙げた雑誌はあくまで本文の詩や文章が中心で,表紙絵は冊子の趣味性を高めるものだったり,挿画もやや副次的な扱いだったりするのに対し,『月映』は版画そのものに重きが置かれ,表紙を聞いてから最後のページを閉じるまで,その冊子全体が,静かに漂うような一つの作品世界となるよう,意図的にまとめられているところが大きく異なっていた。先にも触れた萩原の「故田中恭吉氏の雲市J>rについて」には,田中との出会いがいか-481-

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