鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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に衝撃的なものであったか,続けて記されている。「嘗時,私があの素ばらしい霊芸術に接して,どんなに驚異と嘆美の瞳をみはったかと言ふことは,殊更らに言ふまでもないことであろう。賓に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を,田中氏の塞術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである。その頃,私は自分の詩集の装頼や挿董を依頼する人を物色して居た際なので,この新しい知己を得た悦びは一層深甚なものであった。」萩原が「装顧や挿画を依頼する人を物色して居たjのであれば,前章で見たように,『仮面』の長谷川潔や永瀬義郎をはじめ,絵を描ける人物は他にもかなりの数いたことになる。そうしたなかで,田中を探し当てたことは,彼らの芸術を考える上で重要な意味を持つであろう。そもそも萩原が『月映』に関心をもったのは,1914年10月,北原白秋の詩歌雑誌『地上巡礼』第2号で『月映』創刊号の紹介記事が掲載されたためだと考えられる。紹介は巻末「寄贈雑誌jの欄にあり,「ここにもなつかしい人たちの集りがある。高貴な心を念々とする私はかういふ有難い心を持った人たちを見ると涙がこぼれるほど感じ入る。J(注12)という,『月映』の表現世界に対する北原白秋の全面的な賛同を示したものであった。当時,萩原,田中,思地は白秋著作の熱心な読者であった。萩原が白秋を強く慕っていたことはよく知られるところだが,1914年9月,『地上巡櫨』創刊号を手にした時に萩原が白秋にあてた書簡をみると,その頃彼の心酔は最高潮に達していたことがわかる(注13)。萩原は白秋のすべてを吸収しようとするかのように新しい冊子を熱心に読みふけっていた。『月映』の紹介が掲載された第2号も発行後すぐ入手し,白秋が絶賛するところの『月映』に興味をもったことはじゅうぶんあり得るのである。一方,田中や恩地と白秋の交流がどのようなものであったか,これは今後更なる研究を要する部分であるが,自分たちがはじめて世に問うた作品集を白秋の『地上巡櫨Jに寄贈したこと自体が,白秋への思いを最もよくあらわしているのではないだろうか。寄贈は『地上巡躍J最終号(1915.3 )まで続いている。田中の愛読書の中には白秋の『邪宗門Jがあった。恩地が少年期に胸をときめかせたのは『思い出Jであった(注14)。ともあれ,萩原,田中,恩地たちのあいだには,北原白秋という強い求心力が働いていた。彼らは共通する心の師のもと,磁場に引き寄せられるようにして出会ったの-482-

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