鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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4.『月に吠える』の成立である。そして,『月映Jで田中が描き出していた画面は,萩原が内面に抱いていたイメージと,その根幹に近い部分で通じるところがあった。「自分の求めてゐる心境の世界の一部分を」「一層はっきりと凝視することが出来たjという言葉を素直に受けとめれば,田中の作品を目にしたことは,萩原がさらに新しい詩的言語を作り出すためのジャンピングボードになったと考えることができる(注15)。当時,多くの雑誌に見られ始めていた版画は,その多くが後期印象派あるいは表現主義の様式に影響を受けた,木版独特の彫線を強調したものであった。そういう意味ではどれもが似た面を持っていたと言える。そのような様式に傾いていった背景には,当時盛んに「生命」の重要性を主張していた『白樺Jに代表される思潮がある。つまり,この頃の版画の多くは,内面の感情を限りなくいきいきと表現することや,個性を出来るだけ伸長させることといった,いくぶん楽観的で明るい感情をあらわすことを志向し,そこからあふれる激しい感情をあらわそうとして,西欧の表現主義につながる様式と結びついたものだった。しかし田中の木版画は,同様に西欧の様式から影響を受けながらも,病のためにしなびていく自分の生命とそこから立ちのぼる悲痛な感情を,強い印象を放つ木版の彫線に込めてあらわそうとしたものだ‘った。そこには祈りにも似た,圧倒的な暗さと重苦しさがある。萩原が,田中を「驚異と嘆美の瞳jで発見したのは,他の作家の画面にはみられない,そうしたどこまでも暗く重い陰欝な部分において,自分の求める世界との一致をみたからだといえるのではないだろうか。もういちど「故田中恭吉氏の塞術についてjに戻る。「まもなく恩地孝氏の紹介によって私と恭吉氏とは,互にその郷里から書簡を往復するやうな間柄になった。幸にも,恭吉氏は以前から私の詩を愛護して居られたので,二人の友情はたちまち深い所まで進んで行った。嘗時,重患の病床中にあった恭吉氏は,私の詩集の計董をきいて自分のことのやうに悦んでくれた。そしてその装棋と挿董のために,彼のすべての「生命の残部jを傾注することを約束された。」こうした経緯については,上記の萩原の記述を裏付ける田中から思地にあてた書簡が現存しており,それらをもとにした三木哲夫による詳細な田中恭吉の年譜(注16)-483-

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