5.『月に吠える』の反響があるのでここで詳しくは述べる必要はないが,田中は詩集のために100枚の予稿をつくり,その中から20,30枚の絵を選んで美しい詩画集にしようと考えていた。しかし5枚描いたところで病状が悪化し,ほどなく思地にあてた手紙で萩原の挿画の件は断ってほしいと頼んだ。現存する田中の書簡はそれが最後である。その2か月あまり後,田中は永眠した。萩原に田中からの辞退の申し出は伝えられていなかったようで,田中が亡くなってから1週間ほど後,思地から伝えられた突然の言卜報に,驚きと失意を記した返事が恩地あてに届いている(注17)。その後,萩原は思地から田中の遺稿を送られ,「私共は,私共自身のためにも恭吉氏のためにもあの人の幽霊を公衆の前に照らさなければならない。」(注18)と新たな決意を記している。それから10か月ほどして,萩原から恩地に手紙が書かれる。それが詩集出版の再計画にあたっての依頼だ、った。「今度の詩集は故田中恭吉氏の追悼記念の意をかねた出版です」「田中氏の表現しゃうとした『病的な明るさ』をば,大兄の感覚を通じて再現して戴きたいのです」「今度の出版は私一人の詩集でなく,故田中氏と大兄と小生との三人の塞術的共同事業でありたい,少なくとも私はさう思ってゐる。それ故,普通の出版物の表装や挿蓋を董く董家と著者との関係のやうに非肉交的(塞術上で)の無意味なものでなくありたいと思います。J(注19)と萩原の思いが切々と記されている。この間,萩原は詩人の室生犀星とともに詩誌『感情』の創刊事業を始めており,それには思地も表紙や挿絵,詩で参加していた。思地はそこで未来派や立体派に影響を受けたペン画を発表しはじめ,『月映』期の行情的な抽象作品とは一線を画す新しい作風にとりくんでいた。そのかたわらで『月に吠える』の装頼も進められ,1917年2月,ついに刊行されたのである。『月に吠える』初版本には,田中の遺作11点と思地の新作4点が,カバー,表紙,本文の聞に掲載され,それは田中がもくろんだ通り「わがままな画」(注20)による詩画集となった。そしてその本は詩壇を中心として大きな反響を巻き起こした。『感情J第2年第4号に特集掲載された諸家の感想から,装憤・挿画も含めた冊子全体について述べた部分を挙げてみよう。-484-
元のページ ../index.html#494