Y王(1)恩地孝四郎は,19日年,親友の田中恭育が亡くなったときに彼の遺作集を刊行し(2) 1915年11月2日消印のもの,1916年10月中旬(推定)で『萩原朔太郎全集』第13を,更なる成長と新しく迎えるべき転機のためにひとまず留め置こうとしたものだ、った。そうした若い日の思いを共有できるのが,若いままでこの世を去った田中恭吉の存在であった。一方恩地はこの装棋を手がけたとき,すでに新しい表現を展開している最中であった。急速な成長を見せていた恩地にとって,l年前の気持ちに立ち返って装順をすることは,いささか困難を伴う作業だったかもしれない。内なる感情を赤裸々に表現しようとした明治末から大正にかけての若い芸術家のあり方を,美術史家たちはこれまで「若き空想J「生の主張J「大正の個性派」などと呼んできた(注25)。萩原や田中,恩地も,文学と美術というジャンルの違いこそあれ,ある意味で非常に近い精神性を持った,まさしくそう呼ばれるべき若い芸術家たちであった。そうした自分の姿を,萩原は『月に吠えるJの中で自覚的に強調し凝縮させ,自らの青春期にひとまず区切りをつけようとしたのだ、った。それは文字通り自らの生を燃焼しつくした田中の遺作を挿むことで一層鮮烈な表現世界に高められ,それによって田中の芸術は人々の記憶に残されることになった。恩地はまたこの仕事と前後して『月映』で展開させた持情的な抽象表現から離れ,大きな制作上の転機を迎えていった。『月に吠える』は,大正初期,熱っぽい青春期を送った三人の感性によって生まれた,その時代にしか作り出すことのできなかった記念碑的作品である。それは次なる展開の胎動を内に秘めたものでもあった。そうした意味においてこの一冊の詩集は後世に残すべき作品集として評価されるのである。ょうと計画し,友人や恭吉の親戚に呼びかけて当時可能なかぎりの作品や遺稿を集めた。だが遺作集は実現せず,その後遺品はず、っと恩地家で保管されていた。それらが1987年,孝四郎の長男である恩地邦郎氏によって,恭吉の生家にほど近い和歌山の美術館に一括寄贈された。それらの中には,油彩画,版画,ベン画をはじめ,数百枚に及ぶスケッチ集や,恭吉が友人たちに送った絵葉書,日記が含まれており,恩地孝四郎が恭吉の仕事をまとめようとした思いが知何に深いものだったかをしのばせる。-486-
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