鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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川田中恭吉から恩地孝四郎宛1914年3月22日付はがき,[]内は筆者付記。(3) 前記の1916年10月中旬頃恩地にあてられた書簡のなかに「田中氏の重芸術その他に(4) 萩原朔太郎「故田中恭吉氏の塞術についてJ『月に吠える』(感情詩社,白日社出(5) 三木哲夫「『ホクト』−『密室.l.『月映』の周辺j『「竹久夢二とその周辺」展図録』(6) 藤森静雄「版董を始めた頃の思出」『詩と版董』第11輯(大正14年5月,詩と版董(8) 小野忠重『近代日本の版画.l(三彩社,1971年)p.36 (9) 小野忠重『近代日本の版画』(三彩社,1971年)p. 49, [ ]内は筆者付記。(11) 『鳳梨(アナナス).l,『光せ』は,美術史家の北川久氏に教示いただいた。なお,(7) 和田浩一「香山小鳥の生涯と作品についてj『宮城県美術館研究紀要j第4号(1989巻(筑摩書房,昭和52年,pp.134-136)にNo.159として所収されているもの,1916年10月下旬(推定)『萩原朔太郎全集』第13巻(筑摩書房,昭和52年,pp.136-137) にNo.160として所収されているものの一部を所蔵。全集に収められていない1915年11月2日を下記に紹介する。恩地孝四郎宛消印;前橋/大正4年11月2日/前1012,はがき,東京市本郷区駒込林町二O六恩地孝四郎様,前橋市北曲輪町萩原朔太郎「恭吉氏の凶報始めて耳にして吃驚致しました。実は詩集の件について同氏から打合せがあり,悉細の御手紙をさしあげておいたところその後更に御消息なく多分病気御重態のこ、遠慮してそのま、にして居りましたところ今日貴兄の御葉書に接し何とも哀悼の極み申しあげる言葉もありません。小生自身の失望も御推察下さい。全くがっかりしてしまいました。此の上は全然今迄の計画を代へるより仕方ありません。それにしても田中氏のやうな天才が天死したといふことは此の園の雲術界にとっての大恨事でした。」っき大兄の特にお書きになった文章があれば,詩集にのせたいと思ひます。/(小生も一,二枚の紹介をかきました)」とあるので,この時点でほぼ書き終えていたものと考えられる。版部,大正6年,後付p.11)(和歌山県立近代美術館ほか,1988年)で彼らの交流のきっかけについて考察されている。社),p.35 年)を参照。-487-

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