鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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いまここに挙げたタイトルは,原本の一部しか確認できていないもの,復刻版やフォトコピーしか見ていないもの,あるいは博物館等の展示品で表紙しか実見したことがないものが多いので,今後さらに調査を続けたい。年)p.55に「昨夜印度更紗と地上巡穫がとずきました,[中略]二冊とも代る代る掌にのせてはめ,載せては讃みました,それも一度に讃むの惜しいやうな気がして,小供か何かず菓子をしゃぶるやうに少し宛,集しみ楽しみ讃みました,あなたの巡曜の社報をよんだときにはどういふわけか涙がしきりに流れ出しました,あなたといふのが態人のやうにもなつかしく教祖のやうにも尊とく見えたのです。」とある。(は判読困難とされている部分。)る。二人とも白秋への傾倒を思わせる小曲風の詩歌やベン画を残しており,田中は『月映』に白秋から詩の寄稿を受けることを半ば夢のように考えてもいた。田中の最晩年のペン画集『心原幽種II』は白秋に贈呈されている。こうした出来事と白秋,田中,恩地らの作品とを照らし合わせた検証が,今回の調査を通じて新たに見えてきた今後の課題である。同伊藤信吉による論考「詩と版画の交流一田中恭吉・恩地孝四郎と萩原朔太郎の往来」『本の手帖』第2巻第9号〜第10号(昭森社,1962年)がある。同三木哲夫「田中恭吉年譜J『田中恭吉作品集j(玲風書房,1997年)年)p.106 同恩地孝四郎宛,1916年10月中旬書簡『萩原朔太郎全集J第13巻(筑摩書房,1977年)p.134 倒田中恭吉から恩地孝四郎宛,1915年7月14日はがきに,萩原の詩集の装頼について述べ「原詩に執しないわがままな画を挿みたいと思ふJという言葉がある。仰)『感情』第二年第四競(感情詩社,1917年4月)pp.35-36 [ ]内は筆者による。凶『感情』第二年第五競(感情詩社,1917年5月)pp.18 20 凶「現詩壇と萩原氏の『月に吠える』J『岩野泡鳴全集』第13巻(臨川書店,1996年),(12) f地上巡櫨J第l巻第2号(巡櫨詩杜,大正3年)p.58 (13) 北原白秋宛,1914年9月4日はがき『萩原朔太郎全集』第13巻(筑摩書房,1977(14) ほかに恩地から恭吉にあてた書簡には「朱繁の挿絵がよかった」という言及もあ(1カ(注2)で紹介したもの。(18)恩地孝四郎宛,1916年1月27日書簡『萩原朔太郎全集』第13巻(筑摩書房,1977-488-

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