(1914年作)がエドガー・アラン・ポーの同名の短編小説から(注17)採用されている可能性のあることからも明らかである。象徴主義に対する彼らの関心は,当時盛んに紹介された西欧の訳詩や小説,評論ばかりでなく,国内で出版される雑誌や新刊書にも当然のことながら向けられていた。その中でも重きを成していたのが,当時最も注目されていた白秋と露風の詩集であった。白秋は,この時期『邪宗門j(1909年),[思ひ出j(1911年),『東京景物詩』(1913年)と相次いで詩集を刊行し,その中で官能的情緒,異国情趣や都会情趣を誼い,事楽的で頚唐的な詩を追求していたし,一方露風は『廃園j(1909年),『寂しき曙j(1910年),『白き手の猟人j(1913年)などの詩集に,陰影に富んだ情調の象徴詩を発表し,新しい象徴詩風の進展を試みていた。『月映』の画家たち3人が全く同じ比重でこの二人の詩人を尊敬し,作品を愛読したとは言えないが,大なり小なりその影響下にあったことは確かである。白秋との関係については改めて別稿で論じるとして,露風と『月映jとの関係について注目するならば,まず気付くのが双方の作品タイトルが非常に似通っているということである。先にも述べたように『月映Jの作品タイトルの中には,同時期に紹介された国外の文学から採り入れたものがいくつか存在する。しかし,さらに注目すべきことは,f月映』の作品タイトルの多くが露風の詩集『廃園』や『白き手の猟人』からの借用,言葉の組み替えによって付けられているということである。たとえば,藤森の〈現身(うっそみ)〉は『白き手の猟人j,{推移〉は『廃園』に含まれる詩の題名と一致している。その他,『月映』の同人たちの作品と露風の詩とを比較すると,以下のような類似が見られる。〈〉は版画およびベン画の題名,「」は露風の詩の題名あるいは断章。〈宇宙の流れを我は聞く〉〈’陣怠〉「ひかりの末にわれは聴く,’陣怠の歌をJ〈すすりなくたましひ〉「すすり泣くとき」〈病めるタ〉「病める蓄積」「悩めるタ」〈我はつねにただひとつの心のみ知る〉「君はただ知る,一つの心」(注18)紙幅の都合上,その一部しか紹介できないが,比較の対象を彼らが制作した詩歌にまで広げるとさらに類似したものが多くなる。また,単に題名の問題に留まらず,彼ら(特に田中と藤森)が表現しようとした情趣は,官能と感覚の解放を謡った白秋よりむしろ露風の陰影に富んだ詩と相通じるものであった。当時,露風の詩の歌うところが「滅びゆく昔を傷む声,秋と冬との恋,40
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