鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ハ同UハU⑮広隆寺所蔵の半蜘像について研究者:早稲田大学文学部講師林はじめに広隆寺は推古朝秦河勝によって創立され,今もなお法燈を守り続けている京都最古の寺院である。飛鳥寺や法隆寺など推古朝創立の寺院が多数現存する飛鳥や斑鳩地方に対し,京都においては飛鳥時代にまで遡る寺院は皆無といって過言ではなく,広隆寺が幾度も火災に見舞われながらも,その都度復興されて現在に至っているのは奇跡といえよう0• 従来広隆寺については,蜂岡寺あるいは秦寺という異称を有していたと考えられてきた(注1)。しかし,最近私は,蜂岡寺と秦寺とは寺地を異にして創立された別寺院であったが,蜂同寺は平安選都に際して寺領地を平安京に収用され,経済危機に陥ったために秦寺に吸収合併されたという見解を発表した(注2)。したがって,蜂岡寺と秦寺にはどのような仏像が記られていたかの問題を明らかにしなければならない。ところで,広隆寺には宝冠弥勤と宝警弥勤と呼ばれるほぼ等身大の二躯の半蜘像が安置されており,その伝来については平安時代の『広隆寺資財交替実録帳』に記載されているこ躯の菩薩弥勤像に該当するといわれている(注3)。しかし,なぜ,ほぼ等身大の,しかも半蜘像といった特殊な仏像が一つの堂宇に二躯も安置されているかの問題は研究されていない。そこで小論では,蜂岡寺と秦寺が別寺院であったという管見から宝冠弥勤や宝馨弥勤に関する文献史料を再検討し,蜂岡寺と秦寺の本尊を考える指針としたい。広隆寺に安置された仏像に関するもっとも古い文献史料として『日本書紀』推古十一年十一月条を挙げることができる。すなわち,皇太子謂諸大夫日,我有尊悌像,誰得是像以恭拝。時秦造河勝進日,臣拝之。便受悌像,因以造蜂岡寺。とあり,皇太子すなわち聖徳太子は,諸大夫に対して自分は尊き仏像を有しているが,誰かこの像を得て礼拝するものはいないかと尋ねたところ,秦河勝が進み出で,臣がその仏像を礼拝したいと言った。そこで,仏像を受け,それによって蜂岡寺を造った南書− 『日本書紀』

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