鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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館で開催された「DERSTRUM.木版画展覧会」のことである(注23)。恩地がこの展覧会の出品作に強い衝撃を受けたことは作家自身語っているし(注24),展覧会目録が恩地家に残されていたことからも確実で、ある。ただ,従来の研究では,恩地の作風がこの展覧会によって具象から抽象へと傾斜したことと,同展出品作家の一人,カンデインスキーの絵画に強い影響を受けたという2点に焦点が絞られていた。しかし,今回,未来社と『月映Jとの関係を調査してみると,思地がこの展覧会に強い興味を示した要因の一つは,同展がドイツから帰国したばかりの山田耕搾と斎藤佳三によって将来されたものであり,その展評が三木露風によって雑誌『未来』に掲載された話題性の高いものだ、ったからではないかと考えられる(注25)。前述した如く,恩地たちは山田と斎藤が渡独する前から彼らの動向を視野に入れていたと思われる。その注目の二人が帰国し,すぐさま雑誌『未来Jに参加するとともに,帰朝記念の音楽会「山田アーベントjを開催し活発な動きを示し始めたのである。「DERSTRUM.木版画展覧会jの開催はその一連の活動の中にあり,恩地たちの興味を惹き付けるに十分なものであった。思地がこの展覧会の時点で山田や斎藤と直接的交流があったとは思えないが,この直後から彼が山田を訪問するようになったことを考慮に入れるならば,恩地が展覧会ばかりでなくその企画者である山田その人に強い影響を受けていたことは確実で、ある。山田の回想によれば,当時,彼の家にはあらゆる種類の芸術家と芸術愛好家が集まっていたらしく,そこは「芸術家とその卵の巣」となっていたという(注26)。恩地もその中の一人であったに違いなく,彼は山田の身体から発散される独特の香気と未知の国のものとも思えるその言葉に強烈な刺激を受けたというし(注27),その後,1916年4月に赤坂の山田耕搾楽堂を会場に日本美術家協会第一回展が開催された際にも参加して,山田との結びつきを一層深めていった(注28)。それではこのような交流の中で恩地が山田から受けた影響として具体的に挙げられるのは何であろうか。むろんその中には,恩地が山田を介して西欧の前衛的絵画,とりわけカンデインスキーの絵画に目を聞かれたということがある。しかし,本稿で最も注目したいのは,恩地が1914年6月から『月映』誌上で発表し始めた「好情Jシリーズと山田の「PoemeJシリーズとの関わりについてである。恩地の1910年代における「好情jシリーズは,そのほとんどが『月映』に掲載されたものであり,同誌に掲載された恩地の全作品34点中,21点を占める。このうち,1914-42

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