鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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phd nu と書かれている。つまり,蜂岡寺は秦河勝が聖徳太子から仏像を受けたことによって造られたことがわかるのである。岩崎和子氏は,この記事には,仏像の尊名あるいは将来像であったか否かについては記されていないとして,広隆寺現存の宝冠弥勤あるいは宝誓弥勅がこの仏像に該当するかどうかはわからないと言われた(注4)。確かにここには聖徳太子から受けた像を「尊き仏像jと記しているだけであって,尊名や法量などは書かれておらず,この像の実体を知ることはできないから,岩崎説は妥当な見解と思われる。ただし,この「尊き仏像jを受けたことによって蜂岡寺の造立に至ったのであるから,この仏像は蜂岡寺の根本本尊と想定してよかろう。つぎに,『日本書紀』推古三十年七月条にも広隆寺の仏像に関する記事がある(注5)。ここには,新羅遣大使奈末智洗爾任那遣達率奈末智並来朝。何貢仏像ー具及金塔並舎利且大濯頂幡ー具小幡十二候。即悌像居葛野秦寺,以齢舎利金塔濯頂幡等,皆納子四天王寺。と記されている。すなわち,推古三十年七月に新羅は大使奈末智洗爾を,任那は達率奈末智を遣わし,仏像ー具,金塔や舎利,大濯頂幡一具と小幡十二条を献上した(注6)。そこで,仏像は葛野の秦寺に据え,舎利や金塔および濯頂幡などは四天王寺に納めたと書かれている。田村円澄氏によると,新羅の使者は聖徳太子の追善のために仏像や仏具を献上したのであって,それゆえに太子ゆかりの広隆寺や四天王寺に納めたのだという(注6)。この記事についても岩崎氏は,仏像の尊名や法量は記されていないとして,宝冠弥勤あるいは宝警弥軌がこの新羅将来像に該当するかどうかは判断できないという(注7)。したがって,この記事からは新羅将来像が秦寺に安置されたことは確認できるが,新羅将来仏がどのような仏像であったかはわからない。以上,『日本書紀J推古十一年条と三十年条にみえる仏像は,いずれも尊名や法量が明記されておらず,果たして宝冠弥勤や宝誓弥勤が『日本書紀』記載の仏像に該当するかどうかは不明で、ある。明治時代の小杉祖郁や平子鐸嶺以来,蜂岡寺と秦寺という寺号は,前者は地名による,後者は檀越秦氏の氏族名による俗号で,一方広隆寺という寺号は蜂岡寺・秦寺の法号と解されていた(注9)。つまり,蜂岡寺と秦寺,広隆寺の三つの寺号は同一寺院

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