Fhd の異称というのである。したがって,『日本書紀』推古十一年条の仏像と推古三十年条の仏像は同じ寺院に安置されていたと考えられてきた(注10)。ところが,最近私は,蜂岡寺と秦寺は寺地を異にして創立され,奈良時代までは併存していたという見解を発表した(注11)。すなわち,蜂岡寺は,推古十一年に秦河勝が聖徳太子から仏像を受けたことによって創立され,その寺地は京都市平野神社南方の北野廃寺社に当る(注12)。一方,秦寺は推古三十年に秦河勝が聖徳太子の追善のために現在の太秦広隆寺境内地に発願建立したものであった(注13)。その後,蜂岡寺は平安選都に際して寺領地を平安京に収用されて経済危機に陥ったために,同じ檀越の秦寺に吸収合併され,残った蜂岡寺の堂宇は常住寺すなわち野寺となった。なお,合併後の秦寺は一般に広隆寺と呼ばれ,現在に至っている,というものである。したがって,私見によると,蜂岡寺には推古十一年に秦河勝が聖徳太子から受けた仏像が,秦寺には推古三十年の新羅将来の仏像がそれぞれ安置されていたことになる。また『日本書紀J推古十一年条の仏像をはじめとする蜂岡寺の仏像が平安時代まで残っていたなら,合併後には秦寺に移安されたと推測できょう。二『広隆寺資財交替実録帳』蜂岡寺や秦寺の安置仏像について記した奈良時代の文献史料は現在残っていないが,両寺合併後の貞観十五年(873)編纂の『広隆寺資財帳』と寛平二年(890)編纂の『広隆寺資財交替実録帳』が広隆寺に伝来している(注14)。貞観十五年の『広隆寺資財帳』は金堂安置の仏像を記した巻頭部分を欠失している。しかし,かつて黒川春村が指摘したように(注15),寛平二年の『広隆寺資財交替実録帳』は『広隆寺資財帳』をもとに書かれたと推定できるから,『広隆寺資財交替実録帳』によって『広隆寺資財帳Jの欠失部分を補うことが可能で,このごつの文献から平安時代の広隆寺に安置されていた仏像を知ることができるのである。では,I広隆寺資財交替実録帳Jの金堂安置の仏像記事を挙げておきたい。霊験薬師イ弗檀像萱躯居高三尺在内殿懸鎖子一具今校全金色弥勤菩薩像萱躯居高二尺八寸所謂太子本願御形金色阿弥陀悌像萱躯居高四尺今校大破同仏脇侍菩薩像弐躯居高三尺八寸今校大破不空羅索菩薩檀像萱躯立高一丈七寸
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