鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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金色弥勅菩薩像査躯居高二尺八寸今校薬師悌殿之内以上仏菩薩像,本自所奉安置これによると,広隆寺の金堂には檀像の薬師仏が内殿すなわち厨子に安置されていて,太子本願の御形といわれる金色の弥勤菩薩像と,金色の阿弥陀三尊像および檀像の不空罵索菩薩像,さらに薬師仏の厨子内には金色の弥勅菩薩像が紀られていたことがわかる。なお,これらの仏像は「本自Jすなわち「本より」安置されていたという。ここには本より安置されていたとあり,一見してこれらの仏像が創立当初から安置されていたかのようである。しかし,毛利久氏によると霊験の薬師仏は延暦年聞に乙訓郡の乙訓杜から広隆寺に移安されたものであり(注16),一丈七寸の不空霜索菩薩檀像はその法量から現在も広隆寺に伝来する平安初期の不空絹索観音菩薩像と考えられているから(注17),これらの仏像が飛鳥時代から伝来していたと解釈することはできない。これは毛利久氏が指摘したように弘仁九年の火災より前に安置されたと解釈した方が妥当であろう。私見によると,平安時代の広隆寺は秦寺が蜂岡寺を吸収合併したものであったから,『広隆寺資財交替実録帳』記載の仏像には秦寺と蜂岡寺の仏像が混在していたことになるが,どの仏像がいずれの寺院の仏像であったかを判断することはできない。薮田嘉一郎氏は明治時代から平安時代まで、の文献を遡って検討し,宝冠弥勤と宝警弥勤の伝来について検討した(注18)。薮田氏は,宝冠弥勤はその法量が太子本願の弥勤菩薩像の法量二尺八寸と一致するとして宝冠弥勅を太子本願の弥勤像にあてた。一方の宝誓弥勤は金箔の保存状態がよいことから薬師仏厨子内に安置されていたという弥動菩薩像にあてていて,現在大方の支持を得ている。しかし,『日本書紀J推古十一年条と三十年条からは仏像の名称、や法量などは不明であるから,『広隆寺資財交替実録帳』記載の二躯の弥勤像が『日本書紀』推古十一年条と三十年条の仏像に該当するかどうかは不明と言わざるをえない。三,『聖徳太子伝補闘記』平安時代初期に書かれた『聖徳太子伝補闘記j(以下『補閥記Jと略す)の推古二十四年条には,丙子年五月三日。天皇不余,太子立願延天皇命,立諸寺家。即以平復。諸国国造伴造亦各始誓立寺。先是。太子巡回至子山代楓野村。謂群臣目。此地為韓,南開つU

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