にd記Jの記事は『日本書紀』推古十一年条の聖徳太子と秦河勝との仏像授受とそれによ北塞,河注其前,龍常守護。後世必有帝王建都。吾故時遊賞。即於蜂岡南下立宮。秦河勝率己親族記奉不怠。太子大喜,即叙小徳。遂以宮預之。又賜新羅国献仏像。故以宮為寺,施入宮南水回数十町井山野地等。とある。これによると,丙子年すなわち推古二十四年五月三日,天皇は病にかかり,太子は天皇延命の願いを立て,諸寺を建てたところ天皇は平癒した。諸国の国造や伴造らも各々初めて寺を建てることを誓願したという。また,推古二十四年五月三日条に続いて何時かはわからないが,それ以前のこととして以下のようなことが書かれている。すなわち,聖徳太子は国内を廻って山背国の楓野村に至り,群臣に次のように言った。この土地は南が聞き,北は塞がれていて,河がその前を流れ,龍が常に守護している。後世必ず帝王が都を建てるであろう。それ故私は遊覧してみたい,と。そこで,蜂岡の南麓に宮を建てたところ,秦河勝が親族を率いて奉仕することを怠らなかった。聖徳太子は大いに喜び,秦河勝を小徳に叙して宮を彼に預け,新羅献上の仏像を秦河勝に賜った。秦河勝は宮を寺と為して宮の南の水回数十町と山野を施入したという。新川登亀男氏は,この記事には蜂岡寺という寺号は登場しないが,蜂岡の地名や秦河勝の人名,宮を寺にしたということから,この記事は蜂岡寺の創立を記したものだといわれた(注19)。『補闘記Jは,聖徳太子が宮を建てて秦河勝に預け,また新羅献上の仏像を秦河勝に賜ったことによって蜂岡寺ができたかのように記している。しかし,先述したように,『日本書紀』推古十一年条によると,蜂岡寺は秦河勝が聖徳太子から「尊仏像Jを受けたことをきっかけとして造られた寺院であった。つまり,『補闘記』にいう聖徳太子の宮建立と新羅献上の仏像は,『日本書紀j推古十一年記事には見られないものである。しかし,両書いずれも蜂岡寺の発願者を秦河勝と記し,秦河勝が聖徳太子から仏像を受けたことによって蜂岡寺ができたという点については共通している。すると,『補闘る蜂岡寺の建立に,太子が宮を建立したことと新羅献上の仏像のことが書き加えられたものと解することができょう。ところで,『補闘記Jにいう新羅献上仏は,この記事が推古二十四年条に続けて書かれていることから,明治時代の久米邦武以来『日本書紀』推古二十四年条の新羅献上仏に該当すると言われてきた(注20)。すなわち,『日本書紀J推古二十四年条には,
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