秋七月,新羅遣奈末竹世土,貢仏像とあり,推古二十四年七月に新羅が奈末竹世士を遣わして仏像を献上したという。『補閥記Jは聖徳太子が秦河勝に仏像を賜ったことを推古二十四年条に続けて記しており,一見すると,この推古二十四年新羅献上仏を聖徳太子が秦河勝に賜ったかのようである。しかし,『補閥記』には聖徳太子が秦河勝に新羅献上仏を賜ったのは推古二十四年五月三日以前のことと記されており,久米のように『日本書紀J推古二十四年条の新羅献上仏が蜂岡寺に安置されたと考えることはできない。とはいえ,『補閥記』は,太子が秦河勝に賜った仏像を新羅献上のものとし,そのうえこの記事を推古二十四年条に続けて書いているのである。つまり,『補聞記』は聖徳太子が『日本書紀J推古二十四年条の新羅献上仏を秦河勝に賜ったとは記していないものの,わざわざこの記事を推古二十四年条に続けて書いたのは,秦河勝が聖徳太子から受けた仏像は『日本書紀J推古二十四年条の新羅献上仏であったと思わせるための意図があったからであろう。では,『日本書紀』推古十一年条には聖徳太子と秦河勝の仏像の授受と,それによる蜂岡寺の創立のことが記されているのに,なぜ『補閥記Jは蜂岡寺の創立を推古二十四年条に続けて記したのであろうか。私見によると(注21),平安時代の広隆寺は秦寺が蜂岡寺を合併して一つの寺院になったものであって,蜂岡寺の仏像は秦寺つまり現在の広隆寺に移安されていた。すると,合併直後の広隆寺には秦河勝が聖徳太子から仏像を受けたという蜂岡寺の伝承と,新羅献上の仏像が安置されたという秦寺の伝承が併存していたと思われる。しかし,『広隆寺縁起Jによると,平安時代初期の広隆寺は,延暦年間には別当泰鳳による流記資財帳の盗難事件,また弘仁九年には大火災に見舞われており,縁起や資財帳などの諸文書は散逸し,堂宇もことごとく焼失していたため,恒例の仏事や寺務が行えない状況下であった。それ故承和三年広隆寺の別当道昌らが『広隆寺縁起』の作成に際して参照したのは,広隆寺側の史料ではなく『日本書紀』と官庁に保管されていたと推定される「案内Jであった(注22)。このような状況では広隆寺に安置されていた古い仏像の由緒も暖昧になっていたのであろう(注23)。新川氏によると(注24),『補閥記Jの編纂には秦氏あるいは広隆寺関係者の所伝が参考になったというが,広隆寺における資料上の混乱は『補闘記Jの編纂にも少なからぬ影響を及ぼしたに違いなかろう。つまり,蜂岡寺と秦寺が合併したことや流記資材帳などの盗難散失や大火災などもあいまって蜂岡寺と秦寺がもともと別寺院であっ514
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