鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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にdたことは忘れられていたのではなかろうか。それ故,秦氏あるいは広隆寺内には『日本書紀』にいう聖徳太子と秦河勝との仏像授受および新羅献上仏安置の伝承だけが残っていたと考えてよかろう。ここでもう一度『補闘記』の記事をよく吟味すると,聖徳太子が新羅献上仏を秦河勝に賜ったことによって蜂岡寺ができたことになる。これは聖徳太子と秦河勝との仏像授受という蜂岡寺の伝承と,新羅献上仏安置という秦寺の伝承が唐突にも結びついたものであると言えよう。つまり,『補闘記』の編者は,蜂岡寺の伝承と秦寺の伝承を一緒にまとめて書いたのである。しかし,『補闘記Jの編者は記述するに当たって困難な問題にぶつかったのであった。というのも,『日本書紀』によると新羅献上の仏像が蜂岡寺(実際は秦寺)に安置されたのは推古三十年七月のことであった。一方,『上宮聖徳法王帝説』や法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘によると,聖徳太子は推古三十年二月に亮去している。つまり,新羅が仏像を献上したのは聖徳太子の亮去から五ヵ月も後で,聖徳太子がこの新羅献上仏を秦河勝に賜ることはできないのである。そこで『補閥記Jの編者は,安置場所不明の『日本書紀』推古二十四年条の新羅献上仏に着目し,聖徳太子がこの仏像を秦河勝に賜ったかのように付会したのではなかろうか。しかし,『日本書紀』によると聖徳太子と秦河勝との仏像授受は推古十一年のことであったから,仏像授受の年次を推古二十四年とすることはできず,「先是jすなわち推古二十四年以前といった暖昧な表現でごまかしたのであろう。四,『聖徳太子伝暦』聖徳太子伝の集大成と言われる『聖徳太子伝暦』(以下『伝暦』と略す)推古十二年条には,秋八月。(前略)其日臨楓野大堰而宿。造仮宮於蜂岳之下。匪日而了。(中略)称楓野之別宮。後以宮為寺。賜川勝造。井寺前水田三十町。寺後山野六十町。又賜新羅王所献仏像幡蓋等物。とある。ここには,推古十二年秋八月に聖徳太子が楓野の大堰に至って宿した。また仮宮を蜂岡の麓に建てたが,その日のうちに建て終わり,楓野の別宮と称した。後にその宮を寺と為して秦河勝に賜い,寺前の水田三十町と寺後の山野六十町,さらに新羅王が献じた仏像や幡蓋などを賜ったという。

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