nb 『補閥記Jには,聖徳太子が蜂岡に宮を建てて新羅献上仏を秦河勝に賜い,秦河勝が宮を寺と為して土地を施入したと書かれていたが,『伝暦Jは聖徳太子が蜂岡に宮を建てた後,寺と為して秦河勝に賜い,土地を施入して新羅献上の仏像を賜ったと記している。つまり『補闘記』は秦河勝を蜂岡寺の発願者と記しているのに対し,『伝暦』は聖徳太子が蜂岡寺の発願者となっているのである。これは『伝暦』の編者が『補闘記』の記事に太子七寺建立説話による潤色を加えたものと解される。また『伝暦』には,聖徳太子が推古十三年に蜂岡に宮を造ったが,その後に宮を寺として新羅献上の仏像を安置したと書かれているから,仏像を賜ったのは推古十二年より後世ということになろう。しかし,この『伝暦』の記事からは何時仏像を賜ったかはわからないが,新羅将来仏云々という記述は『補闘記』と同じく『日本書紀』推古二十四年の新羅将来仏像と関係があろう。すなわち,『伝暦J推古二十四年条には,秋七月。新羅国王遣使,献金仏像高二尺。置蜂岡寺。此{象放光時々在怪。太子命川勝造日,仏像有霊。親不可垢。宜安清浄堂,不得恐拝。俗之療人。若有触犯,彼必被禍。(後略)とある。これによると,推古二十四年七月に新羅の国王が使いを遣わして二尺の金仏像を献じた。その仏像は蜂岡寺に安置したが,時々光を放つ霊験があったので,聖徳太子は秦河勝に,清浄な堂に安置して俗人が欲しいままに拝めないように命じた。また,汚れた俗人が触ったりすると必ず禍を被るであろう,と予言したことが書かれている。先述したように『補闘記』は聖徳太子と秦河勝との新羅献上仏授受を推古二十四年以前のことであると暖昧に記述したが,『伝暦』では推古二十四年の新羅献上仏が蜂岡寺に安置されたと記されている。『補闘記』の編者は秦河勝が聖徳太子から受けた仏像が『日本書紀』推古三十四年条の新羅献上仏であったかのように思わせる意図で,推古二十四年条に続けて聖徳太子が新羅献上仏を秦河勝に賜ったと記したが,『伝暦』はまさに『補閥記』の編者が意図したとおりに推古二十四年新羅献上仏が蜂岡寺に安置されたと書いているのである。ところで,『伝暦』には,新羅献上の仏像を清浄な堂に安置して俗人が欲しいままに拝めないようにしたとあるが,これは薮田嘉一郎氏が指摘したように『広隆寺資財交替実録帳』の薬師仏厨子の中に安置されていた弥勤菩薩像つまり宝警弥動からヒントを得て創作されたものであろう(注25)。もっとも鎌倉時代初期の『続古事談』第四第
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