二十話には,広隆寺の本尊薬師仏の安置状況を伺わせる記事がある。(前略)本尊ヲ取テ山林ニ可入之由議定シテ,御帳ノ中ナル厨子アケテ,本尊ヲトリ出サントスルニ鎧ナシ。コノ鑑失テヒサシクナリニケリ。(後略)とある。これによると広隆寺の僧侶らが,本尊を取って山林に立てこもるべきであると合意し,御帳の中にある厨子を開けて本尊を取出そうとしたが鍵がなかった。この鍵は紛失して永らく経っていたと書かれている(注26)。広隆寺の本尊すなわち薬師仏は厨子の中に納められ,厨子の扉には鍵を掛け,さらにその外側に帳をめぐらしていたことがわかる。先述したょっに薮田嘉一郎氏は宝警弥勤の金箔の保存状態がよいことから宝誓弥勤を薬師仏の厨子内に安置されていた弥勤菩薩像にあてたが,『続古事談』の記事が厨子の状態を正確に伝えているなら,薮田氏の見解も納得できょう。さて,『補閥記』は,『日本書紀J推古三十年条の新羅将来仏の秦寺安置について全く記していない。推古三十年の新羅将来仏については『伝暦J推古三十一年条に(注27) 太子莞後発未年秋七月。新羅任那使等並来朝。の貢仏像金塔舎利大小幡等物。又大唐学問僧恵済恵光恵日福因。二国使人井僧等,開太子去年莞。各向墓門,挙哀大突。相語日。非王之本意。何処献仏像舎利等。領客教職。令貢朝廷。とある。これによると太子がなくなった後の突未年つまり推古三十一年新羅や任那の使者が来朝し,仏像や金塔,舎利および大小幡などを貢いだ。また,唐に留学していた恵済や恵光,恵日と福因らが帰ってきた。しかし,新羅と任那の使者と僧侶らは太子が莞去したことを聞くと,墓門に向かつて大きく働突し,献上した仏像をどうすればいいかと言ったので,朝廷に置かせたという。『伝暦』には,新羅と任那の使者が仏像や金塔などを献上したことと唐留学僧の帰国のことが書かれているが,これは『日本書紀』推古三十年条と共通する。しかし,新羅献上仏を朝廷に置かせたということは新羅将来仏像を葛野の秦寺に安置し,金塔などは四天王寺に安置したという『日本書紀』推古三十年条とは相異する。つまり,f伝暦』の編者は,推古三十年の新羅の仏像献上は記しながらも,その仏像が秦寺に安置されたことについては全く触れていないのである。先述のように『補闘記Jは,聖徳太子が秦河勝に新羅仏像を賜ったと記したが,推古三十年の新羅仏像は太子亮去後に献上されたため太子が秦河勝に賜うことができな-517-
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