鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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F円υOO むすびいことから,安置場所不明の『日本書紀』推古二十四年条の新羅献上仏に着目し,推古二十四年条に続けて新羅献上仏拝受を記したのであった。しかし,『伝暦』は『日本書紀』推古二十四年条の新羅献上仏を聖徳太子が秦河勝に賜って蜂岡寺が創立されたかのように記し,それとは別に『日本書紀』推古三十年条の新羅仏像将来とその仏像の秦寺安置の記事に言及したのであった。しかし,推古三十年の新羅将来仏像については触れたものの,広隆寺にはすでに推古二十四年将来の新羅仏像が安置されたと記したから,この推古三十年将来の仏像は宙に浮くことになり,朝廷に置かせたと担造したのであろう。このように『補闘記』ゃ『伝暦Jなど太子伝関連文献は,『日本書紀』推古二十四年条の正体不明の新羅将来像があたかも蜂岡寺の根本本尊であるかのように書留めながらも,『日本書紀』推古三十年条の新羅将来像の秦寺安置については触れていないのである。このような秦寺無視の原因としては,『補闘記』と『伝暦』が太子建立寺院として挙げられていた蜂岡寺とその安置仏像について記述したことが挙げられよう。奈良朝末の『七代記』によると広隆寺という寺号は蜂岡寺の法号であったが,この広隆寺の法号は蜂岡寺が秦寺に合併された後も広く使われ,現在に至っている。おそらく蜂岡寺という地名による俗号は秦寺に移転合併されてからは使えなかったのであろう。しかし,聖徳太子信仰者たちは,実際は蜂岡寺が秦寺に合併されてその存在がなくなったにもかかわらず,秦寺が広隆寺という蜂岡寺の法号でよばれることから,秦寺が蜂岡寺に合併されたかのように誤解していたかも知れない。いずれにせよ,秦寺とは聖徳太子信仰者側にとって太子建立寺院でなかったから,さして書く必要もない寺号であって寺院でもあったのである。以上,蜂岡寺と秦寺を別寺院とする私見によって広隆寺安置仏像に関する文献資料をキ食言すしてきた。蜂岡寺には推古十一年に秦河勝が聖徳太子から受けた像が秦寺には推古三十年新羅将来の像が安置されていたが,平安時代の合併後には両寺の仏像が一緒の堂宇に安置されたと考えられる。『広隆寺資財交替実録帳jには二躯の弥勤菩薩像が記されていて,現在も広隆寺に伝存する宝冠弥動と宝嘗弥勅に該当すると推定されているが,これら二躯の仏像が推古十一年条と同三十年条にみえる仏像に該当するかどうかは残念

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