鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注(1) 小杉櫨郁「太秦広隆寺J『国華』八九号,1897年2月(2) 拙稿「広隆寺の創立と移転」『日本歴史』第六一一号,1999年4月(3) 薮田嘉一郎「太秦広隆寺蔵二躯半蜘思惟形像の中世に於ける伝来と信仰(上)J(4) 岩崎和子「広隆寺弥動は朝鮮渡来か」大橋一章編,『寧楽美術の争点』,グラフ社,(5) 流布本『日本書紀』にはこの記事を推古三十一年条に載せているが,『日本書紀』ながら確認できない。一方,『補関記』には聖徳太子が蜂岡に宮を建てて秦河勝に預け,秦河勝が聖徳太子から新羅献上の仏像を賜って宮を寺と為したと書かれているが,これは秦河勝が聖徳太子から仏像を受けて蜂岡寺を造ったという『日本書紀』推古十一年条の蜂同寺の伝承と,新羅献上仏が安置されたという『日本書紀J推古三十年条の秦寺の伝承が結びついたものと解釈できる。このように蜂岡寺と秦寺の伝承が結びついたのは,蜂岡寺と秦寺が合併した後,流記資材帳などの文献資料の盗難や大火災に見舞われたために資料上に混乱が生じたことに原因があろう。さらに,『伝暦』は聖徳太子を蜂岡寺の発願者とし,推古二十四年新羅献上仏が安置されたかのように記しているが,これは『補闘記』の記事に潤色を加えたもので,太子七寺建立説話が具体化されたものと言えよう。なお,『補闘記Jと『伝暦Jが蜂岡寺については詳細に記しながらも秦寺について触れなかったのは,両書が聖徳太子建立寺院としていわれていた蜂岡寺を主体に記したからであろう。小論では,広隆寺安置の仏像に関する文献について考察し,宝冠弥勤と宝嘗弥勤がどこに安置されていたかは言及しなかった。これについては稿を改めて論じたい。平子鐸嶺「太秦広隆寺の草創及その旧地について」『学燈』第十一巻第十号,1907年10月毛利久「広隆寺の本尊と移建の問題j『史遮と美術』一八九号,1948年望月信成『広隆寺』山本湖舟写真工芸部,1963年5月『仏教史学』第四号,1950年1984年10月のもっとも古い写本の岩崎本や北野本には推古三十年条となっており,本論では推古三十年説に従う。これについては,井上光貞「推古朝外交政策の展開J(『聖

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