鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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年6月から11月にかけて制作された「持情」は,〈行情I}〔図4〕,〈持情II},{行情noと連番を付した連作で,その特徴は眼や手など人体の一部分と幾何学形態とを組み合わせることによって自己の内部感情を表すというものであった。一方,それに続いて1915年3月から11月にかけて発表された「行情」は,連番の代わりに〈太陽額に照る〉,〈生はさみし夜目ざめて泊ながれながる〉,〈くるしみのうち懐に入るものあり〉など詩の断章とも思える副題を付した,完全に幾何学的形態で構成された作品群であった。恩地が「持情」という非常に文学的なテーマを主題として選んだことについては,別稿で指摘したように,竹久夢二,カンデインスキー,北原白秋や三木露風の詩集など明治末から大正初期にかけての美術や文学の思潮によるところが大きい(注29)。「汗情詩jが作者自身の感動や情緒を表現する形式をとった詩であるとするならば,恩地の「行情jあるいは「持情画」は作者自身の感動や情緒を表現する形式をとった絵画を意味していたといえるのである。そして,この「行情Jという題名が使われ始めるわずか数カ月前に制作されたのが,f也でもない山田耕搾のピアノ曲連作「Po色me」であった。山田の「Poeme(舞踊詩彼と彼女)Jはlから7のナンバーを付された連作で,1914年4月3日,16日,17日,29日,5月1日,31日に制作され,三浦環の渡欧送別会で演奏された(注30)。この演奏に関しては未来社同人の柳津健が「タンゴ踊,其他」(『未来』l巻2号)で紹介しており,それによると,山田はこの送別会の2週間後にも柳揮をはじめ川路柳虹や斎藤イ圭三を自宅に呼ぴ,わざわざ黒い布を三方に垂らした舞台まで準備して「PoとmeJの演奏を聞かせたという。恩地が山田のこの連作曲を聞いたという確証はないが,この時期の日本の文学界でも美術界でも,ある一つの題名の元に連香作品を作るという方法カ吉珍しく,また山田がのちに「Poとme」は「『持情詩象徴詩』に近い小篇であったJ(注31)と述懐したように,山田の「PoとmeJも思地の「好情jも行情詩・象徴詩を意識した作品であることを考え合わせるならば,両者の間に何らかの影響関係があったのではないかとも思えるのである。山田の「真の芸術は人間の内部にある詩想の象徴的表王周でなければならぬJ(注32)という芸術観や,自分の楽曲に「Poとme」という詩的題名を使用したり,露風の詩に曲を付けることによって音楽と詩との融合芸術を図ろうとした創作上の姿勢が,直接的ではないにしろ,恩地の絵画と詩との総合を目指した「幸子情」シリーズに何らかの刺激を与えた可能性がある。1920年代になって山田は,「綜合芸術より融合芸術へ」という文章の中で「あらゆる-43-

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