鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(19)新川登亀夫『上宮聖徳太子伝補閥記の研究』吉川弘文館,1980年9月(6)任那は欽明朝に新羅に亡ぼされておりこの時来日したのは新羅の使者であった。(7) 田村円澄「半蜘思惟像と聖徳太子信仰J『百済・新羅』日本仏教史第四巻,法蔵(8) 岩崎和子(注3)参照(9) (注1)参照(11)拙稿(注2)参照(12) 藤沢一夫「山城北野廃寺」『考古学』九一二,1938年(14) 『広隆寺資財帳Jと『広隆寺資財交替実録帳』については,川尻秋生「資財帳と徳太子論集』,聖徳太子研究会,1971年11月)が参考になる。館,1983年7月同毛利久(注1)参照同森下衛「広隆寺出土瓦について昭和五六年度調査の瓦溜(SK13下層)出土資料を中心に−J『京都府埋蔵文化財論集』第一集,京都府埋蔵文化財調査センター,1987年1月交替公文広隆寺帳を中心として」(『日本歴史』五0三号,1990年4月)を参照されたい。同黒川春村「太秦資財帳時代考J『墨水遺稿硯鼠漫筆』巻之七,吉川弘文館,1905同毛利久(注1)参照加)文化庁監修『国宝4−彫刻I−』毎日新聞社,1984年12月岡薮田嘉一郎(注3)参照例久米邦武『聖徳太子実録J丙午出版社,1919年8月ω拙稿(注2)参照倒拙稿「『朝野群載』所収の「広隆寺縁起」についてJ『早稲田大学文学研究科紀要J第四十二輯第三分冊,1997年2月仰)もっとも『広隆寺資財交替実録帳』には金色の弥勤菩薩像が「所謂太子本願御形」と注記されている。これをそのまま解釈すれば一般に太子本願の御形と言われいるということであって,確たる根拠があったわけではないように考えられる。凶新川登亀夫(注19)参照伺(注3)参照年7月520

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