鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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⑨ シリア国エマル出土粘土板に捺された印章美術の研究研究者:(賊古代オリエント博物館研究員石田恵子エマル遺跡エマルは現在メスケネと呼ばれている北シリアの遺跡で,トルコから流れるユーフラテス河の右岸に位置する。ユーフラテス河のダムの建設により水没するため,19721975年フランス隊によって発掘が行われ(注1),模形文字の刻まれた粘土板文書が大量に発見され,紀元前1312世紀の古代名エマルという都市であったことが判明した。これまでに約1100点の粘土板文書が報告されている(注2)。たまたま日本の個人コレクションの模形文字粘土板文書にエマル文書と解読された一括資料があった(注3)。この文書には多数の印章の印影が残されていた。通常の印章は発掘で出土しない限り,骨董市場から入手されるのみで出土データが得られない。しかし,このエマル文書の印影は場所と年代が限定出来る格好の資料であり,ご所蔵者の許可を得て調査させていただいた。エマルの時代背景ユマルの名は紀元前3000年紀後半のエブラ文書,紀元前2000年紀前半のマリ文書にも見え,エブラ王国やマリ王国とも交渉があった。ちょうどユーフラテス河の湾曲部に位置し,まさに交易の中継地点の港としてエマルは重要な拠点であったのである。紀元前1360年頃北シリアはヒッタイト新王国によって征服され,エマルやアララク,ウガリトなどの都市は従来の自治組織を公認された上でヒッタイトの管轄下にはいったのである。エマル文書は紀元前13-12世紀の4世代にわたり,トルコ東部でシリア国境に近い都市カルケミシュの王の管轄下にあったことがわかっている。エマルの粘土板文書エマルではおもにアッカド語で書かれ,模形文字は左から右へ横書きされた。エマルからは一行は短いが文字が細かく行を平行に重ねて書く縦長シリア型粘土板と,一行が長く文字も大きめで行間隔の均一でない横長シロ・ヒッタイト型粘土板の2種類が併存している。今までの報告では,縦長シリア型粘土板と横長シロ・ヒッタイト型粘土板の比率は4: 6といわれている(注4)。この度材料とした粘土板文書コレクシ-522-

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