Y王して証人は縦長シリア型粘土板では文章中の氏名記載のみでも通用していたのに対し,横長シロ・ヒッタイト型粘土板では証人名を書かなくても印章を捺して添え書きをすればよかったらしい。なお,ヒッタイト象形文字は一般的ではなかったため,模形文字で書き添える必要があったのは大いに考えられることである。なお,文書中の証人名と印章の添え書きの両方がある例は横長シロ・ヒッタイト型粘土板に多い(14例)。この時期のシリアはいくつかの王国や都市国家が並び、たつ激動の時期にあった。メソポタミアで、は古パピロニア王国がヒッタイト古王国により滅ぼされ(1530年頃),紀元前1450年頃中期アッシリア王国が興り,紀元前2000年紀中頃にはシリアを含む北メソポタミアにフルリ人とミタンニ人がミタンニ王国(17001270年頃)を築いたが,中期アッシリア王国によって滅ぼされてしまう。北のトルコではヒッタイト新王国(1460-1190年頃),エジプトでは新王国(1570-715年)が互いに勢力を伸長し,ついには両者が武力衝突(紀元前1286年カデシュの戦)し,シリア内でもフェニキア人(紀元前1500 1300年頃)が地中海沿いに活躍していた。それぞれの王国が互いに影響を与え合っていたことが,当時の美術,特に数の多い印章美術に反映されていることがわかった。この時代の美術様式がすでに上述のような周辺諸国の美術に影響されて成立していながらも固有のままで,一つの融合した新しい美術を生み出すには至らなかった。たとえば雷神や女神など精神世界ですでに受容されている存在が美術上ではそれらが独自性を保ちつつ併存している事実は,ヒッタイトの支配者層と土着のエマルの人々という社会状況から考えても,美術は民族に固有のものであるということができょう。また,シリアにおける紀元前2000年紀の印章美術は,エマルの資料が加わったことにより具体的な新局面が開ける可能性も出てきた。今後のさらなる研究の進展が求められている。Arnaud, D., Textes syriens de !'age du Bronze recent, Aula Orientalis-Supplementa 1 . Barcelona, 1991 Arnaud, D.,“Les textes d’Emar et la chronologie de la fin du Bronze RecentぺSyria(1) Beyer, D., Meskene Emar : Dix ans de travaux. 1972-1982. Paris (2) Arnaud, D., Resherches au pays d’Astata. Emar VT. 1-4, Paris, 1985-87 528-
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