鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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芸術はリズムに於いて融合することが出来るjと述べ,自分の「舞踊詩jはまさにその「融合芸術Jを目指したものであると記している(注33)。恩地もまた,1920年代に綜合芸術雑誌『内在』を刊行し芸術の綜合化を明確に打ち出すと共に,1930年代には美術と音楽との融合を目指して,1910年代の「持情」シリーズの延長線上の連作,〈リリックNO.2 楽曲による持情〉シリーズを制作するようになる(注34)。このような点も考慮に入れると,思地が1910年代に山田から受けた影響は想像以上に大きく,それは1920年代,30年代に展開した彼の芸術の方向性,芸術の綜合化という方向性に関わるものだ、ったとも考えられる。おわりに以上考察したように,1910年代における恩地と露風,山田との交流がたとえ直接的なものでなかったにせよ恩地から露風や山田への一方的な憧れによるものであったにせよ,彼が両者から,あるいは二人を含む未来社の活動全体から受けた影響は少なからぬものだったといえる。とりわけ,露風が『未来』を創刊し,山田が帰国後の活動を開始した1914年に彼が生涯のメインテーマ「行情jを見出し,連作として発表し始めたことは注目に値する。恩地は「持情」シリーズにおいて,露風を中心とする象徴詩の世界を視覚的に表現しようとしたし,その中に山田の表現主義的音楽との共通項を見出し融合しようとした。そして,それを絵画化するための造型言語として,当時『白樺』ゃ『現代の洋画』などの雑誌や美術展などで紹介された西欧の絵画,たとえばルドンやムンクの世紀末的芸術,カンデインスキーや未来派,立体派の抽象的絵画を選択し採り入れたのである。本稿では,考察の対象を『月映』と未来社の関係に絞り込んだため,西欧美術受容の問題について十分な検討をすることができなかったが,いずれにしても,1910年代における恩地の「持情」シリーズが,明治末から大正初めにかけて勃興した新しい文学,音楽,美術の思潮と深い関わりを持ちつつ展開し,成立した作品群であることに違いはない。そして,同シリーズのこのような性格が,恩地自身が「私の『汗情Jは恐らく芸術ではないであらふ。が併し芸術がある充実した心情のcatchとその表現にあるとせば,私のそれも芸術でありうる。」(注35)と記したように,表現形式や手法にとらわれない新しい絵画の誕生をもたらす要因の一つになったと考えられるのである。-44-

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