鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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3 津軽信寿の芸術的関心「柏木菟意匠料紙箱J,「春日野意匠硯箱J,及び『独楽徒然集』は,津軽信寿のもとで制作された作品であり,それらの制作に際しては,当然信寿自身の意向が大きく働いていたと推測される。そこで,信寿の芸術的晴好について具体的に探ってみたい。津軽藩の表石高は,4万5千石であったが,4代藩主信政時代に大規模な新田開発が行われ,貞享3年(1686)の実質石高は26万1千石余,元禄7年(1694)には29万6千石余にまで増加し,本州の北限に位置しながら,経済的にはかなり富裕な藩であったらしい(注20)。また,かつて津軽家は,俵屋宗達筆「蔦の細道図)弄風」(高野美術館蔵)や尾形光琳筆「四季草花図巻」,「紅白梅図扉風」(MOA美術館蔵)などの美術品を所蔵していたことが知られ(注21),近年では小林忠氏により,信寿を光琳の「紅白梅図扉風」の注文者とする説などが提示されている(注22)。また『津軽歴代記類』(注23)は,信寿が書画や詩,和歌に優れ,絵を狩野常信や英一蝶に学んだと伝える。なかでも絵については特筆され,近衛基照に揮牽を望まれたという逸話が紹介されている。信寿が絵を好んで描いた様子は,津軽家の道具帳『二之御丸御宝蔵御道具帳』(弘前市立図書館蔵)(注24)に,「玄桂院様御筆」,「栄翁様御筆Jなどの注記を伴う作品名が,40件にのぼることからも窺われる〔図23〕。なかには,六曲一嬰の花鳥図扉風,四季絵巻などもみられ,信寿の絵事がかなり本格的なものであったことを示している。また,信寿が中国文化に傾倒していた可能性を示す事例として,藩主在任中に弘前城下に黄葉宗寺院が聞かれたことがあげられる。黒石温湯の地に延宝7年(1679)に聞かれた黄葉寺院の薬師禅寺に,信寿は享保9年(1724)9月に参詣し,黄葉僧・秀固と詩賦の遊ぴに興じている。これを機会に,翌年の享保10年(1725),信寿の命により,弘前城下にあった曹洞宗の寺院・慈雲院が黄葉寺院として再興され,秀国がその開基となった。この後,享保17年(1731)には,弘前藩より寺禄として五十俵を給付されるなど,津軽家から手厚い保護を受けた様子がわかる(注25)。以上のことから,信寿は芸術に対して高い関心を持ち,また黄葉宗という新たな中国明清文化へも積極的に接近する人物であったと考えられる。4 「弘前藩庁日記Jにみる破笠細工の役割次に,「弘前藩庁日記」の調査で発見した破笠細工に関する興味深い事項について報540

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