告を行いたい。まず[資料12,3,7]にみられるように,破笠の制作する細工物を津軽藩では「からくり細工」,或いは「からくり」などと呼んでいた(注26)。「からくり」という語には,「からくり人形」ゃ「覗きからくり」のほかに,「工夫をこらして物事を仕組むこと」,[仕掛け,仕組み,構造」,「糸などの仕掛けで動くもの」などの意味がある(注27)。基準的資料の乏しい現在,断定は避けなければならないが,「柏木菟意匠料紙箱J,「春日野意匠硯箱」のように木菟や鹿をやきもので表わし,立体感・現実感を持たせた表現,さらに言えば「和」と「漢」のダブルイメージを意匠に託す機知的な仕掛けなどが,「からくり細工Jを意味する可能性もあると思われる。しかし,破笠の逸話には,精巧な玩具を作りそれを両国橋や浅草で商っていたと伝えるもの(注28),竹で時計を作ったと伝えるもの(注29)などがあり,破笠が「からくり人形」ゃ「覗きからくりjのようなものを作っていた可能性も否定できない。破笠細工に冠せられた「からくりjの意味については,引き続き慎重に検討していきたい。また[資料1-2〜8]から,破笠細工を媒介とした,津軽家と諸大名,幕臣たちの交流を知ることができる。松平大学頭こと高崎藩藩主・松平輝規(1682〜1756),板倉相模守こと亀山藩藩主・板倉勝澄(1716〜1769),有馬六左衛門こと西条藩藩主・有馬氏久(1699〜1771),松平陸奥守こと仙台藩第5代藩主・伊達吉村(1680〜1751)といった大名や,幕府の医師・典薬頭を代々つとめる,今大路道三こと今大路親顕(1675〜1737),元勲(?〜1759)親子など江戸幕府の幕臣も,破笠細工の見物を申し入れてきたり,実際に印龍や細工物の制作を注文したりしている。これらの大名・幕臣のなかでも,特に今大路家は,代々徳川家のお伽衆を務める「お伽の医師」として知られ,歌書,謡曲,漢詩,有職故実など諸芸書の稀観本を数多く所蔵していたという(注30)。また伊達吉村は,元文3年(1738)3月28日に津軽家で行なわれた茶事に招待されている([資料1-7]参照)。この茶事の間,主人を待つ御供のものに破笠の細工を見物させており,また茶事終了後には,伊達吉村を始め,幕臣の今井帯万こと今井好昌(1691〜1756),堀川兵部大輔こと堀川広益(1694〜1756),岡本玄治こと岡本寿品(1667〜1749),秦寿命院こと秦子竪(1691〜1756)らの客たちも破笠細工の見物をおこなっている。さらに,伊達吉村は破笠細工に余程執心していたのか,[資料1-8]元文4年11月朔日条でも,破笠細工見物を11月27日に予定していることがわかる。実は伊達吉村は,破笠の息子・栄羽を,享保17年(1732)に仙台藩の御抱え絵師菊田家の養子として迎えている。菊田栄羽は,伊達家五代吉村,六代宗村,七代重村の三代に仕え,「山-541-
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