Y王(1)津軽信寿一弘前国津軽藩第5代藩主。4代藩主信政の次子として誕生,宝永7年(2)現在,弘前市立図書館には14,424冊もの旧弘前藩津軽家蔵の記録・文書類が保管水図jや「陶淵明図Jなどの作品を遺した(注31)。また伊達吉村自身,和歌や茶道,絵画を愛好する文人大名として著名な人物で,「自画像Jゃ「六所玉河和歌御手鑑」などの優品を多く描いている。以上,「弘前藩庁日記jの分析から,破笠細工が津軽家の私的な場だけにとどまらず,大名の招請など公式の場でも享受されていたことが明らかとなった。破笠細工は,津軽家周辺の芸術愛好大名,幕臣たちの知的かっ芸術的欲求を十分に満足させる,贈答品としての役割をも担っていたと思われる。5 現時点での結論と今後の課題以上の考察を通して,これまで明確な根拠が示されぬままに唱えられてきた,破笠の「中国趣味jの様相を具体的に提示することができたと思われる。そして,その「中国趣味」の背景には,芸術愛好大名とも呼ぶべき津軽信寿が存在し,さらには津軽家周辺の大名,幕臣サークルの聞で破笠細工が享受されていたことも判明した。破笠が活躍した17世紀末〜18世紀前半は,幕府の儒教政策を契機に中国から輸入される書物の数が飛躍的に増大した。また,寛文元年(1661)の寓福寺開宗を皮切りに黄葉宗寺院が全国各地へと広がるなど,新たにもたらされた中国明清文化の紹介や移入が盛んに行われた時期でもある。破笠の活動の実態を解明することにより,従来知られてきた初期文人画家たちとは異なる角度からの明清文化受容のありかたが明らかになると考えられる。なお今回紹介したI弘前藩庁日記jの記事は,破笠の出仕期間の一部にすぎず,今後も引き続き調査を行い,津軽藩における破笠の活動の全貌を把握し,破笠やその作品の果たした役割や,大名,幕臣サークルの実態について検討していきたい。(1710) 12月,42歳で家督を相続した。幼名は竹千代,はじめ信重,のち信寿と改めた。享保16年(1731)年5月16日藩主の座を嫡孫信著に譲り致仕する。同年7月剃髪し竹翁と称し,元文2年(1737)6月栄翁と改めた。法名は性定徹心玄圭院。-542-
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