⑩ 美術雑誌戦時統制と西洋美術研究者:京都市立芸術大学大学院美術研究科修了佐々木多喜子はじめに一一美術雑誌戦時統制とは一一昭和16年7月,それまで約40誌あった美術雑誌は廃刊となり,同年9月内務省警保局企画掛より許可された8誌が創刊された(注1)。さらに昭和18年11月に再改組が行なわれ,昭和19年1月より美術雑誌はl誌のみが刊行されることとなった。このように昭和16年から終戦までのあいだ,美術雑誌は統合再編をくりかえした。統合再編のもっとも大きな要因は,「配給用紙の激減と印刷機械の減少」であった。昭和17年版『雑誌年鑑』では雑誌全般について,「雑誌が単なる営利のための私的機関ではなく,国家の公的機関として国家的,民族的強化に奉仕すべき」であり,「編集企画が私利追求にもとづくものは割当て用紙を抑えられ,それが国家目的にそうものについては豊かに供給される」と報告している。用紙の割当ては,編集企画の段階で当局の事前の審査を受け,その評価により決定された。審査基準は「時局認識の深度,編集の良否,読者層への適合性,執筆者の思想関係,発行所の性格,類誌との関係,広告の問題jであった。内務省は当時の社会および文化活動の様子を調査し,年次報告を出した。各種文化団体は内務省監視下での活動を余儀なくされたのである(注2)。昭和17年版『雑誌年鑑』には美術雑誌にたいし,「従来の展覧会中心,鑑賞主義的デイレッタンテイズムを棄てて,美術のあるべき姿の探求,美術を通して国民精神のj函養に積極的な働きかけを切望する」と書かれている。美術雑誌の削減はこのような考えのもとに行なわれた。だが実際は当時須田園太郎が,「非物質面Jにおける「統制は他から迫られるのではなしに,内から加えられるものであるべき道に,解したいものである。粛然たる統制,我等はこれに馴れているJ(注3)と書いたように,とくに思想面の統制は上からではなく自主的に行われたものと考えられる。美術雑誌に携わる人々は,活動存続のために,時局に対応した美術を模索することとなったのである(注4)。本研究ではまず,誌面の大幅な削減が行なわれた美術雑誌戦時統制期にも,西洋美術が誌上から消えることなく記事にされ続けたことに着目し,その記事内容を検討する(注5)。このとき西洋美術は,わが国の新文化建設のための参考例として反省と見直しをもって受容されていたことが明らかになる。誌上では「古典主義」と「大衆のための美術jはとりわけ重要視され,頻繁に記事のなかで検討が加えられていた。つ-556-
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