鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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口δたと考えるのである。当時わが国においても,明治以来,外来の文化を無反省に受け入れてきたために,独自の文化が見失われているのではないかという憂いがあった。「インターナショナルjという性質は,文化が祖国の伝統と大衆(注7)から遊離し「変態的発達を遂げるjものであり,ひいては一国の力を弱めるものとして忌避されたと考えられる(注8)。つぎに好例とされた西欧の美術情勢は,「美術機構」確立と「古典主義jの傾向をもつものであった。「美術機構」については,ドイツの文化政策が手本とされ,くりかえし誌面で紹介されている(注9)。美術機構設立の提言は,美術が特殊階級の専有するものとなり,金権主義,商業主義により腐敗を被っている,このような体制を一掃し,美術が一般大衆,国民全体へ浸透するものとして機能するためには国家の介入が必要であるという考えを前提にしている(注10)。具体的には,「結局現在の美術家といふものが有産階級をパトロンとして生活しなければ画家生活が成立たぬJ(注11)といふ問題に対応する解決策でもあったと考えられる。「美術機構」設立が目指すところは,「大衆のための美術」であった。「古典主義」を保守する手本としてはイタリアがあげられた。須田園太郎はことイタリアにかんして以下のように述べている。新興伊太利が,妻術的に偉大であった過去を追慕するのは当然である。一種の古典主義が横溢することは全体的の主潮となった,それが近代的塞術傾向,ことに立体派以後の革新運動に刺激されて起った未来派に先づ伊太利国粋派の叫声が聞かれるのである。伊太利現代派はそのままに伊太利古典派たり得たところに伊太利現代塞術の清新さを自然に受けとり得るのである(注12)。須田はイタリアが「古典主義」を守るべき一種の統制下にありながら,「これに対立する英米の雲市rrより今尚遥かに進取的であるJとし,この国の姿勢を高く評価したのである。いずれにしても西欧の美術情勢はあくまで参考にとどめられるものであり,「我々には我々独自の立場jがあり,模倣・追随は目指すところではなかった。西洋の美術作品の鑑賞・研究においても同様の道が求められた。方法は別にするとして,西欧諸国がかかえていた問題,つまり「古典主義Jと「大衆jに着眼点をおいた美術の再検討

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