鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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1446年のカタストで自分のおいたちを次のように簡単に述べている。「フィレンツェで他に三人の兄姉がいたことがわかっている。一家の経済状態は決して悪くはなく比較的裕福な方であったらしいが,1430年8月のルッカで起こった戦乱で没落した。フィレンツェの建築家プルネレスキの家に連れてこられたのは1419年,彼が7歳のときである。当時ブルネレスキは42歳で独身,母親の遺産として譲り受けた家で(サン・ガエターノ聖堂の裏手にあったが現存しない)兄トンマーゾと2人で暮らしており,まさにフイレンツェ大聖堂クーポラとサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室の建設が本格的に始まった頃である。トンマーゾはカンポーラの修道院に引きこもる前に,アンドレアの父ラッザーロとボルゴの農地を折半で経営していたことがあったので,そこにブルネレスキと少年カヴァルカンティとの接点を見い出すことは必ずしも見当違いではなさそうに思えるが,今も依然としてこの養子縁組の経緯は不詳である。彼は1433年と私は家も家財道具も所有していなしミ。戦争で没落した父,母と三人の兄弟がいるJ(1433), 「私はフイリッポに養育された貧しき見習小僧J(1446) (注4)。一見穏やかに見えたカヴァルカンティと養父との関係は,1434年にカヴァルカンテイがブルネレスキのところから200フィオリーニと財宝を持ち出し,ナポリへ逃亡する事件で中断されることになる(注5)。この事件は教皇エウゲニウス4世に仲介を求めるまでに至ったが,幸いにも一年以内に解決を見た。ブルネレスキの率いる建設現場でコーニスや柱頭など建築装飾細部を制作すると同時に,1430年代初頭にはドナテツロ,ミケロッツォそしてルーカ・デッラ・ロッピアの影響を受けながら彫刻を学び(注6),養父の死後も,ベルナルド・ロッセツリーノ工房と共同制作を行うなど彫刻家として1460年頃まで制作を続けた(注7)。1459年ルーカが制作したベノッツオ・フェデリーギの墓碑(現在サンタ・トリニタ聖堂スカーラ礼拝堂にある)について注文主とのあいだに起こった訴訟問題に関連して,カヴァルカンテイが査定を行っているが,このことは当時カヴァルカンテイがフイレンツェで彫刻家として確かな地位を得ていたことをうかがわせる(注7)。カヴァルカンテイはブルネレスキの死(1446年4月15日)に際し,住居とおよそ3500フイオリーニの遺産を相続した。2年後36歳になったとき18歳のフィーアを妻に迎えるが,子どもはなく養子をとることもなかった。1451年にはさらに実父の遺産がわずかながらも入り,フィレンツェで彫刻家として安定した生活を送っていたものと推測される。1461/62年2月21日にフイレンツェで残した。彼の遺体はサン・マルコ聖堂内567

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