ハ同FO Uカヴァルカンテイの作とされている(注10)。※③ 1432 [大理石製祭壇,サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室(Firenze,San Lorenzo, Sagrestia Vecchia) ] : 1433年のカタストでブルネレスキは「彫刻のマエストロ(maes-tro d’intaglio),アンドレア・デイ・ラゼーロ・デイ・カヴァルカンテ」に対し,コジモ・デ・メデイチのために制作した墓碑と祭壇とその他の仕事の報酬として200フイオリーニを支払うべく債務者であると申告している(注11)。一方カヴァルカンティも同年のカタストで,コジモ・デ・メデイチのための仕事の報酬として同額を申告している(注12)。そこではいずれも設置場所は特定されていないが,ブルネレスキが設計したメデイチ家霊廟サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室(1419-1428)の墓碑と祭壇に同定されている(注13)。祭壇はフイレンツェ洗礼堂の祭壇にならった箱型であり,4側面に半身像の「聖母子」〔図1〕と全身像の預言者(エレミア,アパクク,エゼキエル〔図2〕,イザヤ)そしてケルピムが浮き彫りされている。浮き彫りパネルの裏側からポッジによって1432年の年記が発見されたことでこの同定が裏付けられた(注14)。聖母子像浮彫りの作風は1420年代末から1430年代初頭におけるドナテッロ工房のそれに近い。祭壇のデザインは一般にブルネレスキに帰されている。※④ 1429目33[ジョヴァンニ・デイ・アヴェラルド・デイ・メデイチとピッカルダ・ブエーリの大理石製石棺型墓碑,サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室(Firenze,San Lorenzo, Sagrestia Vecchia)]:③で述べたブルネレスキのカタストにある墓碑と同定されている。コジモの父母であるジョヴァンニ・デイ・アヴェラルド・デ・メデイチ(1429年残)とピッカルダ・ブエーリ(1433年残)の石棺と,それを覆う大理石のテーブルとで構成される。カヴァルカンテイが墓碑のデザインにどこまで関わったかは不明。1892年にファブリクツィがプットーの浮き彫りをドナテッロ,テーブルをカヴァルカンテイが制作したとし,1958-59年にリスナーが墓碑全体のデザインをドナテッロ,浮き彫りの制作をカヴァルカンティに帰属した。同時代の大部分の研究者は,上述した正反対の意見を部分的に踏襲しながら,概ねそれらの中間の立場をとっているが,彼らのほとんどは同時期のドナテッロの作品とされるサンタ・トリニタ聖堂にあるストロッツイの墓碑(おそらく1430年頃の制作)との比較検討を行っている(注15)。現在は,デザインはともかく制作はカヴァルカンティー人の手に帰すことで落ち着いている。は,サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室の祭壇とサンタンブロージョ聖堂のサンテイッシ⑤ 1433? [大理石製タベルナーコロ,サンタンブロージョ聖堂]:シュレーゲル(1960)
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