注(1) u.プロカッチによれば,現在彼の姓名として定着している“Cavalcanti”は誤りで,ムの顔は,明らかにカヴァルカンテイの彫りの特徴を示している。設計した確証はないが,制作に携わったことはほぼまちがいないと思われる。礼拝堂の古典的な建築言語と,マサッチオのフレスコ画〈三位一体〉に描かれた建築的枠組との類似は常に指摘されるところである(注33)。⑬ 1449 [フイレンツェ,サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂カルネセッキ礼拝堂(Cappella dei Carnesecchi Firenze, Santa Maria Maggiore, Firenze)] (注34)⑬ [ブッジャーノ・カステッロ,教区聖堂回廊(旧ベネデイクト派修道院)(Chiesa parrocchiale, ex-Abbazia ben巴dettina,Buggiano Cast巴llo,Buggiano)] : 1038年に建設が始まった聖堂自体はロマネスク様式だが,回廊はその壁面に埋め込まれた煉瓦による幾何学的なアーティキュレーションによって,たしかにルネサンス風ではある。しかし付柱やアーチをはぎ取ったあとのような壁面を見せる現在の状況からは,ブルネレスキ様式とは呼ぴがたい。Maria in Selve, Borgo a Buggiano, Buggiano)]:⑬とともにブッジャーノでは前世紀よりこれらの回廊は「ブルネレスキ派の回廊Jあるいは「カヴァルカンティの回廊Jと呼ばれ,カヴァルカンテイの作とされてきたが関連史料はない(注35)。以上,養父ブルネレスキと,同時代の一連の著名な彫刻家、たちの影響をうけつつ,カヴァルカンテイがどのようなかたちでフィレンツェにおける15世紀前半の主要な建設活動にかかわってきたかを整理することができた。今回の調査では結論を出すにはいたらなかったが,筆者は大聖堂北側聖具室の洗手盤を様式的観点から詳細に検討する作業を続けている。カヴァルカンティの真作として疑問視されることのなかった洗手盤の浮き彫りは,史料的裏付けがあるゆえに基準作とされているが,表現が他の作品と比べた場合,突出しており疑問が残る。また,彼がいくつか制作している箱型祭壇は,初期ルネサンスの礼拝堂装飾プログラムを再構成する手がかりとなり,これらの問題については稿を改めたい。“Cavalcante”とするべきだとしている。さらに“Buggiano”という通称は同時代に@ [ボルゴ・ア・ブッジャーノ,サンタ・マリア・イン・セルヴェ聖堂回廊(Santa-574-
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