phu ウ’(5) 当時フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴ、エツラ修道院に滞在していたエウゲニ(6) G. C. Gentilini, I Della Robbia, La sc山(7) A. M. Schulz, The Sculpture of Bernardo Rossellino and his Workshop, Princeton Univ. (7) ASF, Tribunale Mercanzia,唖ac. 106, in H. Glasser,“The litigation concerning Luca (8) この没年月日はヴァザーリの『芸術家列伝』「ブルネレスキ伝」中のミラネージのウス4世が,逃亡中のカヴァルカンテイをフイレンツェに引き戻すためにナポリのジョヴァンナ2世に送った1434年10月23日付けの書簡(これは当時エウゲニウスの側近で顧問書記官であったレオン・パッテイスタ・アルベルテイによるとされる)が残されている。Arch.Segreto Vaticano, Reg. Brevium Eugenii N n. 153 in G. Zippel, The documenti per la storia dell’arte trovati nell’'Archivio segreto vaticano, per Nozze Alberti-Vecchioni, Bergamo, 1900 (documenti per la storia dell’arte, in Ar-chiivio Storico Italiano, 1901, p. 222).この公的書簡からは,カヴァルカンティがなぜ、ブルネレスキのもとから突然ナポリへ行ったのかはわからない。前年カヴアルカンティはサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室での仕事の報酬として200フィオリーニを得ているが(PortataQuartiere S. Giovanni, Gaya, Carteggio lnedito d’artisti dei secoli X N, X V, X W, Firenze, 1839, vol. 1 , doc. X X XVI),おそらく数年来彼の報酬は養父ブルネレスキが管理しており,すでに20歳を越えていたカヴァルカンテイはそのことに不満を抱いており,それがこの200フイオリーニを持つての逃亡を引き起こしたと思われる。Fir巴nze,1994, pp.43, 46, 81, 87, 91, 95, 97, 129. Press, 1977, pp.49-50.シュルツはサンタ・クローチェ聖堂にあるレオナルド・ブルーニの墓碑(1445ca.)上部の向かつて左側のプットーと,大聖堂北側聖具室洗手盤の向かつて右側のプットーとの類似性を指摘し,墓碑のプットーをカヴアルカンテイに帰している。della Robbia’S Federighi Tomb", Mitteilungen des Kunsthisthistorischen Institutes in Florenz, X N, 1969-70, pp.132. 注によるが,これがフイレンツェ歴なのかグレゴリウス歴なのか不明。Vas紅i-Milanesi, vol. 2 , p. 384, n. 1 .サン・マルコ聖堂右側壁面説教段下の床に,たしかに墓碑があるが,ラービ家の紋章と“SERBRVNELLESCHI LIPPI LAPI”とあるのみで,カヴァルカンティの名は刻まれていない。
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