④ 直武『解体新書J:一一一「…予をしてこれが図を写さしむ」(直武)一一研究者:カリフォルニア州立大学客員教授はじめに18世紀の半ば頃には蘭学熱に乗じて多くの洋書が日本に流入してきた。しかしそのほとんどは,自然博物学,医学書等と国家向上を趣旨としたもので,美術関係の参考書は,まったくなかった。そのような状況の下で,新案を求める画家達は,洋書に使用されている挿絵に目を着け,そこから新技法,構造を学び,新しい絵画分野を切り開いていった。その先駆者ともいえるのが,秋田藩の家臣小田野直武である。蘭学ブームの発端は,杉田玄白であり,彼自身『蘭学事始』で回想しているごとく,日本最初の解剖学書『解体新書』が出版された安永3年(1774)8月頃のことである。その挿図を担当したのが小田野直武である。輸入された医学書の挿絵から西洋の画法を習得した直武は,その技法を伝統的な日本画技術に導入して,ユニークな構図形式を持つ,秋田蘭画を形成した。この小論で蘭学熱に乗じて輸入されてきた洋書との関係に焦点を絞って秋田蘭画と『解体新書』の関係の意義を再検討してみたい。秋田蘭画の誕生に直接のきっかけを与えたのは周知のごとく平賀源内である。まず直武が『解体新書』に関係したいきさつを説明すると,安永2年(1773)7月源内は秋田藩の招轄で阿仁銅山回生のために秋田へ来た。角館の宿舎,造酒屋五井孫左衛門家で直武の扉風絵を見た源内は,直武に上から見た鏡餅を描かせ陰影法を教授したことは良く知られた挿話である。銅山関係の仕事を終え,10月29日に秋田を発った源内を追うかのごとく,直武は前例のない「鉱山方産物方吟味役」という藩命をうけ三年間の江戸詰を申し渡され,12月1日江戸へ向う。前例のない役職を命じられ,あわただしく角館を発ったのは疑問である。多分源内と秋田藩の首脳の間では,直武が『解体新書』の挿図をいれるため江戸へ行くことを承知許可されていたのではないか。杉田玄白と親友の仲にあった源内は,玄白が『ターヘル・アナトミアJをオランダ語から翻訳していたことも,挿図を描く画家が必要であったことも当然知っていたはずである。もしも直武が源内から洋風画を学ぶだけの理由で「源内手付けJを言い渡されたのであれば,このように急いで出発する必要はなかったはずで、ある。またなぜ、直武が『解体新書』の挿図をいれることを公表しなかったかという問題がでてくるが,現-49-ヒロコ・ジョンソン(HirokoJohnson)
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