鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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2 3 芳崖の風景スケッチに関する考察にある日程が参考になるが,実際には芳崖は甲州街道沿を甲府から諏訪湖,塩尻,木曽路を抜けて,犬山,大垣を経て琵琶湖に出,恐らく宇治を経由して3月9日以前に大坂に入っている。大坂で三村晴山と逢うなどしばらく関西に滞在したらしく,大坂での写生も多いが,3月20日には京都,嵐山,高雄を写生している。また,後述の通り,3月21日には京都大徳寺を訪れ,天瑞寺客殿襖絵の縮図を描く。そして,大坂を後にした芳崖は岡山に立寄り同門の学友長谷川勝巌に逢い「旅中真景図写」を与える。郷里では松本寒斎の媒酌で安岡村医師団原俊貞の長女よしと結婚。直ちに江戸に戻っている。さて,このように安政4年の旅行途中で描かれた写生がこれだけまとまって残されていることは,きわめて貴重な芳崖研究資料となることはいうまでもない。これまで,フェノロサとの避遁以降の,すなわち晩年の芳崖作品についてはさまざまに論じられてきているが,幕末期の,いわば「芳崖以前」の風景スケッチについては注目されることカまなかった。そこで,この安政4年の風景スケッチの特徴を列記すると次のようになる。l,単なるメモにとどまらず,スケッチとしての作品性を持つ2,地平線が強く意識され,遠近法的な空間把握が見られる3,パノラマ的視野と,視点を固定した写真視的視野とが混在する〔図し2〕以上を補足説明すると,まず,これらの資料がむしろ作品と呼ぶにふさわしいある種の芳崖らしさというものを感じさせるということが重要である。そして,スケッチゆえに無意識に発揮される風景観は,19世紀的な視覚という大きな枠組みで捉えられる。芳崖が繰り返し「真景jと書くように,そこには「見えた通り」に描こうとする写実の精神があり,視点の固定や遠近法的視覚や地平線の意識につながっている(注6)。ところで,この安政4年の写生帖が初出とされる翠庵の雅号は,幕末から明治にかけての文人画流行と関連付けられ,これまでの研究では南画風の作品に使われたと解されている。しかし,南画風という概念はあいまいであるし,翠庵落款の芳崖作品は,少なくとも当時「つくね芋山水Jと瑚笑された粗雑な筆致の山水画とは無縁である。この風景スケッチにしても渡辺峯山的な写生味があるということは出来ても南画風の

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