円U。。Fひいては桃山障壁画研究にとっても重要であろう。とりわけ,原家伝来縮図には欠けていた檀那の聞の「桜図」が計8面,全体の構図を知りうる程度まで写し取られていることが貴重である。智積院に伝わる長谷川等伯一派の金碧障壁画「桜図」ほかに影響を与えたといわれるこの永徳の「桜図」は,斜めにせりあがる土壌に桜の大樹がうねるように水辺にむかつて突き出し,四方に枝を伸ばしている様子が見て取れる。書き込みから,これが八重桜であったことも判明した。次に,中之聞の「松図Jについては,部屋の3方を連続して写しているため,原家縮図では知り得なかった部分が明らかとなった。すなわち,原家縮図が,仏壇に向かつて左側の壁を写したものであり,芳崖縮図ではそれに続く正面とさらに右側の壁面もあって壁画全体の構成を知ることが出来る。ただし,右側の4面は頁をまたがって写しているためか,図様がつながらず正面との境がどこに当たるのかは疑問として残る。ただ,日輪が三日月と対照的な位置にあったとすれば,日輪のある襖は右から4番目に位置していたはずで、あり,右から2番目の襖を重ねて写したために見かけ上,襖が1面多くなってしまったのかもしれない。いずれにしても,この「松図」および「桜図」の縮図から,いくつかの事実が確認できる。まず,金銀の日月板が釘づけられていたのは「松図」のみであって,松に月,桜に太陽という組み合わせでもなく,あるいは「桜図jに日月があったわけでもなかったということである。このような誤解が踏襲されたとすれば,恐らくは『画乗要略』中の呉北汀の残した記述の読み間違いからきたものだろう。また,近年フランク・ロイド・ライト旧蔵の「老松図扉風」が公開された際に,狩野博幸氏によって「ライト財団にあった「老松図扉風」は,誰が見ても原在中が描いた縮図から考えて天瑞寺の「松図jであったことはほぼ間違いない」(注9)と論じられたことについてだが,今,芳崖の縮図から改めて考えると,この扉風が天瑞寺の「松図jであった可能性は極めて少ないといわざるを得ない。以上,紙面の都合上,また当報告が狩野芳崖研究の一貫であることなどにより,この天瑞寺の狩野永徳筆障壁画縮図については簡略な紹介にとどめざるを得なかった。機会があれば,考察を深めたいと考えている。
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