在の様に情報網が発達していない時代に,源内が3か月も江戸を留守にしていると,何が起こったか見当がつかない。すでに玄白が挿絵作業に入っている可能性もあったわけだ。また秋田藩の方でも,決定されていないことを大々的に発表して,もしも画家がすでに決定されていた場合,藩として形がつかない。そのようなことを考慮して,直武を江戸に送る何らかの理由と肩書きが必要であったのであろう。しかしいずれにしろ秋田藩の首脳部の期待の大きかったことは,直武の書いた『解体新書』の政文からでも明らかである0主1)。『解体新書』の完成までのいきさつ玄白は『蘭学事始』で,4年の間翻訳に費やしたと回想しているが,実際には約3年半で『解体新書』は完成している(注2)。版下に渡してからどの位の日数が必要であったかはっきり解からないが,『解体新書Jが1774年8月に出版されていることから考慮すると,直武は1月から制作にかかったとしても6月か7月頃までに挿図を完成していなければならないことになる。すると直武が半年たらずで『解体新書』の挿図を完成したことになる。こういった角度から換算していくと,直武が12月に急いで、江戸にむけて出発したことも,秋田藩の特別あっかいの理由も納得がいく。蘭学の始まりは,元文5年(1740)第八代将軍吉宗が,本草学者で,幕府医官である野呂元丈と儒学者の青木文蔵(見陽)にオランダ語を研究するよう命じたことから始まるとされている(注3)。日本で最初の解剖は宮中侍医,古医方の大家山脇東洋によって宝暦4年(1754)京都で行なわれた(注4)。そのとき許可を与えたのは,京都所司代,若狭の小浜藩主八代酒井忠用であった。玄白もこの藩の侍医である(注5)。解剖が禁止されていた日本で,最初に許可したのが若狭の小浜藩主であり,最初の解剖書が出版されたのも,小浜藩ということは,酒井家の日本医学向上に対する蔭の貢献は大きいものとみる。山脇東洋はその所見をまとめ5年後『蔵志』を刊行したが,その中で中国伝来の五臓六蹄説が間違っていることを指摘している。その当時,東洋は中国人と日本人の内臓は違うとさえ思ったそうだ。その後,反対論が発し,佐野安貞等は『蔵志』が出版された翌年1760年に,解剖反対論『非蔵誌』を出版するなどしたが(注6),東洋は断固としてひるまず,二度目の解剖さえもした。しかし許可がおりると,後は解剖の許可も比較的たやすく発行されるようになった。解剖と言っても,実際の執刀はえたがするのが通常で,医者は高台などに座り,えたが切り分けて示す-50-
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