鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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tleedkundige TψZen (オントレードキュンジヘ・ターフェレン)であった(注10)。玄白のを見るのが通常であったが,山脇東洋の高弟であった栗山考庵が長州の萩で女の刑死体を解剖した際,外科医が執刀した記録がある(注7)。この事実は,解剖も,単なる臓器の確認に留まらず,専門知識が要求される段階に進んでいったことを示すものである。玄白の最初の解剖経験杉田玄白は,東洋の『蔵志』を読んで以来,機会があれば,観臓してみたいと願っていた。最初の機会を得たのは明和8年(1771)3月4日のことであった。『蘭学事始Jによると玄白は3月3日に町奉行から手紙を受取り,3月4日に千住骨ヶ原で「肺分」があるが,希望ならば見学に来ても良いという招待状をうけた(注8)。玄白は友人である中川淳庵や老輩前野良沢等数人を誘った(注9)。翌日現場に赴いた玄白は,良沢が同じオランダ語版の解剖書を持参していたことに気がついた。「これは誠に奇遇なりとて,互いに手をうちて感」じた二人が持参していた書はドイツ人ジョン・アダム・クルムス(JohannAdam Kulmus)著のAnatomischeTabellenをオランダ語に訳したOn-がどうして『ターヘル・アナトミア』と訳したのか理由は分からないが,『ターヘル・アナトミア』は実際のタイトルではない(注11)。ともあれ前野良沢は1770年長崎に学んだ際手にいれた本であるが,玄白はあまり高価なため藩主に頼んで、買ってもらったと回想している(注12)。解剖されたのは,あだ名を青葉婆と言われていた50才ばかりの老婦であった。予定されていたえたは,丁度その日病気になったため,90才であるその祖父が代わりとなって来たが,「健かなる老者」で経験者であった。良沢と共に持参した蘭書と照らし合わせて見るに,「ーっとしてその図に違ふ事」がないので驚いた。「古来医経に説きたるところの,肺の六葉両耳,肝の左三葉右四葉などいへる分ちもなく,腸胃の位置,干形状も大いに古説と異Jなっていたので驚いた。また,骨骸の形を見ょうと,刑場に野ざらしになっている骨を数々拾って見ると,これもまた旧説と違っており,オランダ人の解剖図の正確さに3人は驚嘆した。その日の帰路,「荷くも医の業を以て互ひに主君主君に仕ふる身にして,その術の基本とすべき吾人の形態の真形をも知らず,今まで一日一日とこの業を勤め来りしは面白もなき次第なり。なにとぞ,この実験に本づき,大凡にも身体の真理を弁へて医をなさば,この業を以て天地聞に身を立つるの-51 -

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