鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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内寝殿に至るまでを,八紙にわたって描いた後,残り二紙に,寝殿の内部で道真少年と父是善卿の対座する場を描いて,「道真化現jの場面としている。ところが,スベンサ一本,杉谷本では,是善卿と道真は,庭上の樹の下の立ち姿での出会い,是善卿が道真を抱き上げているところ,そして承久本同様に寝殿に座している様子の三つの場に分けて,異時同図的に描かれているのである。これは,荏柄本の系統の絵をはじめ,大生郷本や平久里本などにも見られる表現である。この「道真化現」における三つの場の連続描写が,スベンサ一本と杉谷本,ひいてはその祖本の,第二の特徴である。そして,第三の特徴としてあげられるのが,はじめにも記した通り,「時平呪誼J「天神述恨」「内裏炎上j「八月大祭」といった,承久本をはじめ,他諸本の多くが描かない段を絵画化しているという点である。土佐派による三作例,光信本と光起本は,ともに弘安本系図様を基盤としつつ,こうした段も一部加えているが,その他のほとんどの作例では,これらの絵は省略されている。それでは,これら三つの特徴から,スペンサ一本と杉谷本の収束点に立つ祖本とは,どのような作例であったと考えられるであろうか。まず,第一の特徴において,承久本との何らかの接点は否定しがたい。ここにあげたごく一部の場面,モチーフの描き方だけを見ても,それらが両本以外の他諸本には見られないものである以上,そうした表現は,その祖本と承久本との関連において生じたものであると解釈せざるを得ない。では,第二の特徴,「道真化現」の絵をどう捉えるのか。この場面において,両本と承久本が図様上共通するのは,寝殿内で対座する場のみである。ここで,この段の調書を見てみたい。承久本,スベンサ一本,杉谷本の詞は,ともに現存の縁起文としては最も古い建久本の系列に属するものである。そこでこの段の建久本の記述を見てみると,「(略)菅原院と申は菅相公是善の家なり相公平生の嘗時かの家の南庭に五六歳はかりなるおさなき小児のあそひありき給けるを相公見給ふに容顔韓克た、人にあらすとおもひっ冶君はいつれの家の子男そ何によりてか来り遊ひ給ふと小ちこ答へ給ふ様させるさためたる居所もなし又父もなく母もなし相公を父とせんとそ思ひ侍ると仰らるれは相公大に悦てかきいたきかいなて、i斬研精せしめ給けれは天才日あらた也(略)」となっている。是善卿は,自邸の南庭に幼い子を見つけて声をかけ,その子の,是善卿を父としたいとの言601

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