生じたものかも知れない。しかし,これらの作例と承久本や菅生本の状況を合わせ考えると,それら祖本に遡ったとき,絵が調とは別に存在したことは,おそらく間違いないものと考えられる。天神縁起の系譜中では,最大の転写系統である弘安本系も,当初は正嘉本系の調と,これを画面化した淡彩の絵(現弘安本の絵)を別具の状態で諸本の範とすることによって,多くの転写本を成立させている(注5)。以上の考察をもとに,スペンサ一本と杉谷本の祖本についてまとめると,詞は建久本の周辺に求められるとして,絵については,①承久本と何らかの接点を持つ,②縁起文に則した画面表現を行っている,③下絵,もしくは草稿画のようなものであった可能性が高い,ということが言える。そこで,この祖本の成立状況について,以下に仮説を提示してみたい。天神縁起の縁起文として建久本が成立したのは,建久五年(1194)以前,その周辺の時期とされている。この後,これを改訂したものと言われる建保本が建保年間(1213〜1219)に成立するが,天神社では,この建久の頃の縁起文の成立を機に,その絵画化を企図して,まずは各段の草稿画を作成したのではないだろうか。これが,後にスベンサ一本や杉谷本に繋がるその最初の祖本である。ここには,菅公の伝記から怨霊の活躍謹,日蔵の巡歴謹,託宣記,利生記の全てが絵画化されていたであろうことが,スベンサ一本や杉谷本の現状から推測される。そしてこの直後の承久元年(1219)頃にはいよいよ,「根本縁起」承久本の制作が計画された。これはその名に相応しく,既存の草稿画の構図を整理,略化しつつ,一方では多くの副次的な情景を描き加え,壮麗かつ大規模な作品として完成されるはずであったが,まことに残念なことに,未完に終わってしまった。それから40年ほどを経て天神社では,いわゆる丙類の詞に対応させた新たな画面集(弘安本系図様)を作り,縁起絵巻の転写,普及を実現した。この弘安本の図様は,ここでの想定草稿画と承久本の双方の画面を基底としている。承久本は,そのあまりのモチーフの多さと,自由で暢達とした画面表現によって,他の作例との図様上の関係がはかりがたく,筆者もこれを天神縁起の絵画化の初発に置くべきものと考えていたが,スベンサ一本と杉谷本から想定する祖本の画面を承久本の下位に置いた場合には,調書と画面表現の双方において問題が生じてくる。だが逆に,この祖本の画面を承久本の構図の基盤に置いてみると,承久本が根本縁起として何を成したいと考えたものかが,明らかにもなってくるのである。吉田友之氏はかつて,建久本や建保本に関し,「それら先行諸本がただ縁起文のみと607
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