鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注口δハUFO (1)梅津次郎氏によって,天神縁起の調書は,「王城鎮守の神々多くましませと」ではする根拠はきわめて不明瞭である」と指摘し,承久本の白描下絵部分と,メトロポリタン本,北野本地本との図様の近接から,それらが収束する先行絵巻の存在を予測し,承久本における絵画化初発の否定説を提示された(注6)。この吉田氏の提起される承久本下絵とそれら二作例との交叉点としての先行例の存在については,本研究におけるメトロポリタン本の調査結果を含めて,別に詳しく検討したいと考えているが,少なくとも本論で草稿画として比定したスベンサ一本と杉谷本との祖本の図様は,それよりもさらに上位にあるものと考えられ,しかも氏の想定されたような絵巻としての通常の形態を持つものではない。しかし,この祖本草稿画を諸本の頂点に置いたとき,氏も指摘されるように「厳密な意味での根本縁起絵(承久本)への収束しがたい状況」にある現存諸本の関係は明確に捉えられるようになる。そして何よりもその画面は,弘安本系,津田本系,荏柄本系といったのちの全ての転写系統の持つ図様の起源となり得るものなのである。この草稿画は,いつの頃か天神社から流出したものであろうか,その図様をほぼ直接反映すると考えられるスペンサ一本や杉谷本のほか,その影響下に成立したと見られる作例のほとんどは,十五世紀を下る,地方の作例である。ここでも再び,弘安本の草稿画とも捉えられる建治本が,下絵の状態で京都から下されたという事実が想起される。その地域的な波及の様相については,現存諸本のみにおいて詳しく辿ることはできないが,それら諸本の多くは関東方面に点在している。以上のように,本研究においては,スベンサ一本,メトロポリタン本といった米国所在の作例の調査を行う機会を得られたことにより,天神縁起絵巻最初期の図様形成に関する問題について,新たな視野を得ることができ,一つの仮説を提示することができた。今後はこの仮説にさらに慎重に検討を加え,諸本全体の系統関係の詳細な把握を目指すとともに,転写本研究のより有効な方法を模索して行きたいと考えている。なお末尾となってしまったが,本研究の機会を与えられた鹿島美術財団と作品の御所蔵者各位,ならびに御指導賜った東京塞術大学の先生方,また米国での調査にあたり御配慮下さった渡辺雅子氏に,心よりの感謝を申し上げたい。じまる甲類,「日本我朝は神明の御めくみことにさかりなり」の乙類,「漢家本朝

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