申訳もあるべしと,共々嘆息せりJ(注13)と,三人で『ターヘル・アナトミア』を翻訳することを決心し,早速翌日から前野良沢の家に集まり翻訳に取り組みはじめた。ただ前野の「われ前の年長崎へもゆき,蘭語も少々は記憶し居れり」という一言に勇気付けられ始めたものの,「贈舵なき船の大海に乗り出だせしが如くjであった。玄白は『蘭学事始』で長崎の「通調等の手をからず」翻訳を願ったと回想しているが,江戸で蘭学が栄えることは念願であったようだ。その当時辞書もなく,玄白はオランダ語の知識もなかった。玄白の翻訳チームは,まず「外象Jの名称は分かつているので,外部から翻訳をはじめることに決めた。しかし,「少しづつは記憶せし語ありても,前後一向にわからぬことばかりjで,なかなかむずかしくて簡単に進まない。目の上に生えた毛が眉毛(ウェインブラーウ)だという簡単な文でさえ,四苦八苦であった。また鼻は,「フルヘツヘンド」になったものであると言うが,その訳が分からない(注14)。苦心の果て訳語を決めたが,その時の嬉しさは,「連城の玉をも得し心地」であったと回想している。春来る通調に聞いたり,解剖を行ったり,あるときは,獣畜をも解剖して比べてみるなどして,およそ1年余りも過ぎると言語力も進み(注15),安永3年(1774)8月には『解体新書』が刊行される運びになったのである。玄白が回想しているように,「是非ともに用立つものになし,御目にかくべしJと答えた以上,何か役にたてなければと小浜藩の侍医として常に義務を感じていたのであろう。玄白のこの意気込みが,短期間による翻訳完成へと持ち込んだのである。『解体約図』杉田玄白は『解体新書』を出版する前年の1773年1月に予告篇として『解体約図』をだしているが,これは美濃紙5枚の簡単なもので,「序と凡例j,「解説」と骨節,蔵蹄,脈絡の図が含まれている。これは玄白と同じ若狭小浜藩の熊谷儀克が挿図を担当している(注16)。玄白は明和2年(1765)に後藤梨春の『紅毛談Jが,オランダ語使用という理由で「絶板」になったと回想しているが(注17),玄白の言う様な「絶板Jという事実はなかった。現に『紅毛談』(2巻)は明和2年(1765)に刊行されている(注18)。玄白が「…若し私かにこれを公にせば,万一禁令を犯せしと罪蒙るべきも知られず。この一事のみ甚だ恐怖せしところなりjと回想しているように,『解体新書』の出版にあたり極度の緊張恐怖感があったようである。事実,玄白は『解体新書』(5 -52-
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