鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
626/759

Fhu ro (1570〜1576年頃)とそれに続く初期トレド時代(1577〜1583年頃)である。しばしば刻との関連を他のどの作品よりも強く連想させる〈ラオコーン〉理解に不可欠と思われるエル・グレコと彫刻について考察し,異色とみなされがちなこの最晩年の大作再考の一端としたい。エル・グレコと彫刻について検討するにあたっては,その絵画作品中に認められる彫刻作品からの影響,絵画制作の準備段階で採用された小型彫像による構図および人体描写の研究,そしてエル・グレコ自身による彫刻作品という三点がポイントとして想定されるであろう。しかし三点目のエル・グレコ自身の彫刻作品は,大規模な祭壇装飾プログラムの一環として祭壇衝立や祭壇衝立画とともに受注したものがほとんどで,デザインはともかくとして実際の制作に画家自身がどこまで関わったかという議論から始めなければならないので,本稿で、は初めの二点に絞って議論を進め,エル・グレコの彫刻作品そのものに関する考察は別の機会に譲ることとする。絵画の中の彫刻まずエル・グレコの絵画に見出される彫刻的要素であるが,これは主として古代彫刻とルネサンス,特にミケランジエロの作品からの影響である。この点に関してはすでに様々な指摘がなされてきているが(注4),ここでそれらすべてに言及することは不可能であるため,以下では従来の研究に筆者の考えを付け加えながらその要点を述べる。彫刻と関連する要素がエル・グレコの絵画中に特に明瞭に現れるのは,ローマ時代その筆頭にあげられるパルマの〈盲人の癒し〉〔図3〕に登場する人物には,制作当時エル・グレコが滞在を許されていたローマのフアルネーゼ宮にあった〈ファルネーゼのヘラクレス〉(ナポリ考古学博物館)や,現在と同じくヴァテイカンにあった〈ラオコーン群像〉そのものといった有名な古代彫刻が,それぞ、れモデルとして用いられている(注5)。一方スペイン到着直後に描かれたサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院聖堂の〈聖三位一体〉〔図4〕は,デューラーの版画とともにミケランジエロのフィレンツェ大聖堂の〈ピエタ〉を源泉としており,不自然に下がったキリストの右腕はメデイチ家礼拝堂の同じくミケランジエロによるロレンツオ・デ・メデイチ像のそれに等しい。そしてこれと同じ時期に属するパレンシア大聖堂の〈聖セパステ(1) イタリア時代および初期トレド時代

元のページ  ../index.html#626

このブックを見る