phu ウiイアヌス〉〔図5〕にもミケランジ、エロの〈勝利〉〔図6〕や〈ラオコーン群像〉の影響が指摘されているが,直接の霊感源がいずれであったにせよ,イタリア体験の成果を存分に発揮したこの時期を特徴づける,エル・グレコの画歴のうちでも最も古典的で彫塑的な人体表現が実現された例と言えよう。また,初期トレド時代のもう一つの重要な作品であるエル・エスコリアル修道院の〈神聖同盟の寓意(イエスの御名の礼拝)〉の画面右下〔図7〕に描かれた,地獄の怪魚レヴァイアタンの口から吐き出される死者たちのうちには,ミケランジエロの〈河神〉(フイレンツェ,アッカデミア美術館),そしてエル・グレコが現存する数少ない素描の一枚〔図8〕において研究しているメデイチ家礼拝堂の〈昼〉からの借用が認められる(注6)。このレヴァイアタンはピザンテイン美術の図像で,エル・グレコ自身もヴェネツイア時代初期の制作とされる〈モデナの三連祭壇画〉(モデナ,エステ美術館)中央パネルの「騎士に冠を授けるキリストJの中で用いているが,そこにはこうした彫刻的表現はまだ認められない。両作品の比較は,ピザンテインの伝統を背負ったエル・グレコのイタリアでの,とりわけローマでの古代およびルネサンス美術修業の有り様を垣間見せてくれる。これに関連して触れておきたいのは,1983年にシロス島で発見されたクレタ島時代のイコン〈聖母の死〉〔図9〕である。同作はエル・グレコの生地におけるイコン画家としての活動の記録として重要な作例だが,注目すべきは画面下部中央の目立つ場所に置かれたブロンズ製の燭台である。古代の三美神にも似た裸婦像が支えるこの燭台は,マルカントニオ・ライモンデイが制作した香炉の銅版画〔図10〕に着想を得たであろうことが指摘されている(注7)。ピザンティン美術の中では極めて特異なこのモチーフは,エル・グレコがクレタ島時代からすでに,当時島を統治していたヴェネツイアを通じて西欧美術の諸要素を積極的に摂取していたであろうという従来の推測を裏付けている。実際,そうした折衷様式は当時のクレタの画家たちに共通するものであり,マルカントニオ・ライモンデイをはじめとして多くの西欧版画が彼らの図像的源泉となっていた。〈聖母の死〉におけるエル・グレコの関心は,彫刻作品としての香炉や燭台そのものよりもむしろルネサンス風のカリアティードという装飾モチーフに向けられていると言った方が適切で、あろう。しかしカモン・アスナールによってエル・グレコに帰属させられているマドリードのあるコレクション中の燭台〔図11〕が,〈聖母の死〉に挿入された燭台と同様に主体の裸体像(この場合は男性であるが)に支
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