鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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phu oo えられたデザインであることは興味深い(注8)。この燭台をエル・グレコの真作と断定することには問題があろうが,その胴長のプロポーションやコントラポスト,顔の造形などに,後に改めて言及するエル・グレコの小彫像〈エピメテウスとパンドラ〉〔図12〕やタベーラ施療院の〈復活のキリスト〉〔図13〕などと共通する点も感じさせる。エル・グレコの絵画における彫刻作品からの直接的な図像借用は,スペイン到着の数年後を境として次第に影を薄めるようになり,古典的人体描写は彼が国王フェリーベ2世の庇護を得るべくイタリア修業の成果のすべてを投入した〈聖マウリテイウスの殉教〉〔図14〕以降,エル・グレコ独特の長身化された炎のような形状の人体表現へと変貌を遂げていく。そして彼の作品に再び彫刻作品との関連を示すモチーフが登場するのは,〈ラオコーン〉が描かれた最晩年になってのことである。しかしその用いられ方は,以前と決して同じではない。イタリア時代の作品に現れた彫刻的要素は,修業期間であったことを反映して,言うなれば新たに学んだ図像をコンテクストとは無関係に随所に盛り込んだ、ものであったし,スペイン到着直後の作品では,新たな土地で自らのイタリア経験を誇示しようという意図がこめられていたであろう。これに対して,すでに卓越した画家としてトレドでの成功を収め,またその蔵書からも窺い知れる学問的素養を身につけていた晩年の作品に見られるのは,単なる知識や技量の誇示を上回る意図であると思われる。サン・ヒネス聖堂の祭壇画〈神殿の浄め〉〔図15〕は,エル・グレコがイタリア時代から何度も描いた同一主題の最後の作品であるが,神殿内の開放的空間を背景としていた先行する5点と大きく異なり,ここでは神殿内の最も聖なる場所である祭壇の前に展開されている。一見してわかる通りヴァテイカンの古代彫刻〈ベルヴェデーレのアポロン〉と同じポーズを取る祭壇脇の壁寵の中の裸体像は,これ自体もアポロン像ではないかとも言われているが,なぜこの場面にこうした異教神像が挿入されたのかは定かではない(注9)。ヴェネツイア時代の一作目(ワシントン,ナショナルギャラリー)においても,背景の開口部両脇にラフアエッロの〈アテネの学堂〉に想を得たアポロンとアテナ像が描かれている。しかし,宗教絵画の中の異教的要素に敏感だ、った当時のスペインの風潮を考慮すると,サン・ヒネスの作品に導入されたアポロン像は初期に多用した古代的図像への立ち返りに留まらない解釈を要するであろう。(2) トレド時代後期

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