鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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Qd 綿密なトレドの実景描写に都市にまつわる伝説的モチーフ,象徴的モチーフが組み合わされた〈トレド景観と地図〉〔図16〕には,前景左に水の溢れ出る蓋に寄りかかって大地に腰をおろし,「豊穣jを表す穀物の束と収穫物のつまったコルヌコピアを手にした古代風のタホ川の寓意像が登場する。タホ川がトレドにもたらす豊かな実りを象徴するこの川の神は,ミケランジエロの〈河神〉との関連性を思わせるし,足を閉じているものの角度を変えて見れば,同じ時期に描かれていた瀕死のラオコーンのポーズにもf以ている。〈ラオコーン〉も含めてこうした古代的図像や彫刻作品との関連を示す図像が最晩年に再び現れるようになった理由は,定かではない。しかし一つには,この時期のエル・グレコのパトロンたちの存在があるだろう。ここでその一人一人に言及する余裕はないが,高位聖職者,学者,人文主義者などから成るトレドの知識人グループとエル・グレコとの親交はよく知られており,また当時スペインで流行していた異教的詩を愛好する人々の集まるアカデミーにエル・グレコが関わっていたとも言われている(注10)。こうした環境が,エル・グレコをかつて熱心に研究した古代的,彫刻的図像に再ぴ向かわせたことは,充分に予想される。そして,イタリア時代に吸収したそうした図像のレパートリーは,エル・グレコ自身の初期の作品を通じて,また1614年にエル・グレコが亡くなった時の遺産目録からも知られる通り多くの版画や素描の形で,大切に保存されていたはずである。さらに初期の図像を晩年まで伝えるのに重要な役割を果たしたのは,小型の彫像模型であっただろう。絵画制作過程における彫刻パチェコは,エル・グレコが絵画制作に用いるための粘土製の模型(modelo)をアトリエに多く所持していたと証言しているが,事実1614年の遺産目録には20体の石膏模型と30体の粘土か蝋製の模型が記載されている(注11)。そして先に触れた〈エピメテウスとパンドラ〉〔図12〕や〈復活のキリスト〉〔図13〕の小彫像はそうした模型の例だと考えられている。遺産目録に残るだけでも50体あった模型のうち僅かに3体しか残っていないことは残念だが,しかしながらエル・グレコが描く極めて多様にして雄弁な人物のポーズを注意深く見比べてみるならば,全く異なる角度から捉えられた人体が共有しうる一つのモデルの存在に気づかされ,消失してしまった模型がどのようなものであったのかが漠然とではあるが想像されるであろう。

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